バレー

連載:あなたにエール

特集:全日本バレー大学選手権2020

青学・中道紘嵩へ、春高決勝の涙も創部初の1部昇格の喜びも見てきた母からのエール

昨シーズン、青学は創部73年目にして初の1部昇格を果たした。今シーズンのチームを中道は4年生として支えている(写真は全て本人提供)

アスリートの成長を身近に感じてきた方が独自の目線でたどる連載「あなたにエール」、今回は青山学院大学男子バレーボール部の中道紘嵩(ひろたか、4年、東亜学園)へ、母・利果(りか)さんからのエールです。青学は11月30日開幕のインカレに出場。中道にとって学生最後の大会になります。

一緒にバレーのビデオを見るのも楽しくて

私も主人もバレーボール経験者。大した選手ではありませんでしたが、縁に恵まれて、私はVリーグの茂原アルカスで2年、プレーしました。小さいころから背が高かったこともあり、中学の時に地元の学校から強豪私立中学へ転入したんですが、その練習に行くのが嫌で嫌で(笑)。毎朝泣きながら「学校へ行きたくない!」と言っていたし、入ってすぐのころは練習についていくのが精いっぱい。苦しくて、3カ月で9kgやせました。

だから結婚して紘嵩が産まれてからも、無理にバレーボールをやらせようとは思っていませんでした。むしろ男の子だから野球やサッカーなど、何でもやってみればいいと思っていたんですが、小学4年生になったころ、「バレーボールをやろうかな」と紘嵩が言い出したんです。私が中学を選んだ時はほぼ選択肢がなかったので、息子には好きなように選ばせてあげたいと思い、色々な学校へ練習見学に行った結果、サレジオ中学に入学。選手の自主性を重んじる気質が性に合っていたようで、当時から考えてプレーすることが好きな子でした。

小学4年生の時に中道(中央)はバレーの道を歩み始めた

不思議なもので、親子だからというわけではないと思いますが、プレースタイルって似るものですね。私も紘嵩も体ががっちりしているわけではないので、パワーで相手を吹っ飛ばすというタイプではなく、相手のブロックを利用したりとか、考えてバレーをしないと面白くないと思うタイプだったんです。息子は小学生のころから学校へ行く前にも、朝ご飯を食べながら春高バレーのビデオを見ていました。とにかくバレーボールを見て、自分だったらどうするか、とイメージするのが好きだったんでしょうね。相手にとって「これをされたら嫌」というプレーを上手にする選手なので、親としても、元選手としても、すごい選手だなと思うんです。

試合会場へ行けば親として応援していましたが、家で試合の映像を見る時は、私も選手目線で「今のプレーはよかったね」と、派手ではないけど玄人好みのプレーをほめると、うれしそうでした。若いころに産まれた息子なので、年齢も近いせいか紘嵩は私のことを名前で呼ぶのですが、中学3年生の時に「俺って選手としても利果に似ているよね」と言われたことがあります。お互い同じように思っているんだなぁ、とうれしく思いましたし、紘嵩と一緒にビデオを見る時間は、息子だけでなく私にとっても楽しい時間でした。

息子のプレーを見て、元選手としても素直にすごいと思えたという

最後の春高決勝で友達がいる駿台学園と対戦

サレジオ中学校へ進学してからは全国大会へ出場し、メダルもとってくる。バレーボール選手としてはエリート街道を歩み始めました。当時から紘嵩が常に言っていたのは「楽しんでやりたい」ということ。そして「元々強いチームに入って日本一になるよりも、強いチームを倒して日本一になりたい」ということです。

東亜学園に入学してからの3年間は、まさにそんな時間でした。同じ東京の駿台学園には全国大会で優勝した同級生たちがいました。ライバルなのですが普段から本当に仲がよくて、でもだからこそ彼らには負けたくない。それが紘嵩の3年間の原動力でした。

ただ、最初から全てがうまく運んだわけではありません。高校に入学して1年が経たないころ、当時チームを率いた小磯靖紀監督が突然亡くなってしまいました。私も小磯前監督とは小学校が同じだったご縁もあり、とてもショックだったのですが、息子も「これからどうなるのか」と不安を抱いていたはずです。ただでさえ一番近い駿台学園にすごい選手たちがいて、自分たちは決してメンバーにも恵まれているわけではない。これからどうなるのか、本当に勝てるのか。不安もあったと思いますが、コーチだった佐藤俊博先生が監督に就任して、練習を重ね、最後の春高で決勝に進出しました。しかも相手は同じ東京代表の駿台学園。なんだか夢のようでした。

中道はゲームキャプテンとして、最後の春高でも責任を全うした

決勝は1-3で負けて準優勝。でも、これ以上ないぐらい全てを出し尽くして、やり切った。私も応援していて本当に楽しかったし、大満足でした。最後の得点は紘嵩がブロックされて終わったんですが、「下級生のプレーで負けてしまうのはかわいそうだし、それは嫌だから、全部自分に上げてくれ」と言ったそうです。終わった瞬間、佐藤監督に支えていただかなければ立っていられないほど紘嵩は号泣していましたが、それでも「最後は自分が止められてよかった」と。

大会が終わってからしばらくは、あれだけ好きだったバレーボールを家でも見ることなく、部屋に閉じこもっていました。でもそれは、後悔があるからではなく、それだけ全てを出し尽くした証拠。東京体育館の超満員のコートで、最高のライバルである駿台学園の子たちと決勝で戦えたことは、一生の誇りになるはずです。

大事な一戦、チームのためにあえてベンチを選んだ

一緒に戦ってきた同級生たちが関東1部の大学へ進む中、紘嵩は関東2部の青学に進学しました。バレーボール選手としてはある意味、高校でやり尽したと思えた分、大学では日本一を目指すというよりも楽しくバレーボールがしたいと考えたようです。ただ、ひとつ掲げていたのは「自分が大学にいる4年間で、必ず1部に上がる」ということでした。

いつもいいところまではいくのですが入れ替え戦でもなかなか勝てず、「1部にいけばよかったかな」と口にしていたこともありました。でもそれが自分の選んだ道だから、と受け入れて、また頑張る。大人になったな、と思いながらその姿を見ていました。

楽しんでバレーボールがしたい、その思いで中道は青学に進んだ

念願かなって大学3年生の春リーグ後の入れ替え戦で勝ち、創部73年目にして初の1部昇格を果たしました。ただ、実はこの試合に紘嵩は出ていません。けがをしていたわけでもなく、彼が希望してベンチにいました。

なぜかと言えば、その前の入れ替え戦でフルセットまでもつれた時、ここでタイムを取ってほしいという場面でベンチにその声が届かなかったそうなんです。結局、苦しい状況を打破することができずに負けてしまった悔しさがあったので、こんな思いを他の選手にはさせたくない、と。だから自分は試合に出ず、外から勝たせることに徹するから、と言ってきた紘嵩に、私は「分かった。私はヒロが出ていなくても青学が1部に上がるところを見たいし、ベンチワークも見させてもらうよ」と言って、本当に1部へ上げる瞬間を見させてもらいました。高校も大学も、楽しいことばかりでした。

私の夢を全部かなえてくれた息子へ

だから、最後の4年生になり試合がなくなってしまった時、家にいても「つまらない」「俺は運が悪いのかな」と言う姿を見るのは苦しかったですね。あまり自分はこうしたいとか、感情を口にするタイプではないので、大事なことは私よりも中学から一緒にやってきた大事な親友である(大吉)匠(法政大4年、東亜学園)に話していると思いますが、バレーボールを通して、そんな素晴らしい関係を築ける仲間に出会えたことも何よりの財産。これから先、息子がどんな進路を選んでいくのか分かりませんが、何があっても相談し合える仲間がいるので大丈夫。何も心配していません。

選手としては私よりも2倍も3倍もいい選手になってくれて、私がかなえられなかったタイトルは全部取った。中学も高校も全国大会に連れて行ってくれて、私には無縁だった大学バレーという世界も見せてくれた。かなえられなかった夢は、全部紘嵩がかなえてくれたので、伝えたい言葉はひとつ、「ありがとう」しかありません。

息子に自分の夢を全てかなえてもらったと利果さんは感じている(左から弟の優斗、利果さん、紘嵩)

息子のおかげで、私もたくさんの仲間ができて、我が子のように応援できる子たちがたくさんいる。そんな世界をつくってもらえたこともありがとう。私の夢は、全部あなたがかなえてくれました。しかも全部、楽しそうにかなえてくれたね。本当に、ありがとう。バレーをやっている時のヒロは、いつもカッコいいよ。

あなたにエール

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