バスケ

連載:あなたにエール

「山口颯斗らしく戦ってほしい」インカレ2連覇に挑む君へ 一番のファンである父より

山口が3年生だった昨年、筑波大学はインカレで3年ぶり5度目の優勝を果たした(提供・CSPark)

アスリートの成長を身近に感じてきた方が独自の目線でたどる連載「あなたにエール」、今回は筑波大学男子バスケットボール部の山口颯斗(4年、正智深谷)へ、父・直人さん(48)からのエールです。山口直人さんは栃木県宇都宮市初のバスケスクール「TOCHIGIバディーズバスケットボールクラブ」で指導しており、中学生だった山口颯斗も、父の元で力をつけていました。

筑波大・山口颯斗 自分の伸びしろにかけて進学、大学こそ日本一を

ミニバス全国大会中止、彼はドライでした

最初、颯斗はバスケではなくサッカーに興味をもっていました。仲のいい友だちがサッカー好きだったので、その影響だったと思います。僕がバスケの実業団選手でしたから、その子どもがバスケをやるといろんな部分で比べられるじゃないですか。だから本人がやりたいことをすればいいんじゃないかな、と思っていました。でも、僕はいろんな面でサポートができるので、バスケをやってほしいなというのはありましたけど。強要してバスケをやらせたことはないですよ。

バスケを始めたのが小1の時でしたかね。近所のミニバスチームに所属していました。僕のクラブですることもできましたけど、いろんな方に教わった方がいいと思っていたので、あまり口は出さないようにしていました。でも颯斗が家に帰ってきたら、「お前は多分、大きくなるから、こういうことはやっておいた方がいいよ」ということは教えていました。当時はうちの駐車場で、一緒に相撲やドッチボールなんかをしてよく遊んだものです。

小学生だったころの山口(右)は父の計画通りの肥満体型だった(以下、すべて写真は本人提供)

僕(身長187cm)に似てくれるなら颯斗は大きくなるんじゃないかなと思ってまして、毎日のように泣くまで食わせていました。小学生の時から身長は大きい方でしたけど、それ以上にかなりの肥満。でもチームメートの中には彼より頭一個分大きい子がいて、颯斗はいつもその子と比べられていました。それが悔しくてよく泣いていましたね。

颯斗のチームは身長が大きくて栃木県内では負けたことがなく、関東大会で強豪校と戦っても結構勝っていたんですよ。だから全国大会でも上までいけるんじゃないかなというのはありました。でも颯斗が小6だった時、全国大会の直前に東日本大震災があって、大会は中止になりました。本人は「駄目なものは駄目だからしょうがないよ」ってドライに受け止めていましたけど、やっぱり親としては悔しかったです。

悔し涙を流し、こっちが困るまでドリブルを続けた

中学校に上がってからは、学校の部活だけではなくうちのクラブでもバスケをしていました。颯斗の希望でも僕の希望でもなく、流れでした。僕もその3年間はみっちり見るつもりでしたし。部活が終わった後に、家でちょっと食べてからクラブで夜9時までやって、家に帰るのが10時です。体を大きくさせたいと思っていたので、最低白米2合とお肉をひたすら食べさせました。遅い時間だったのでそれが限度だなと。中3までは太っていて足も遅かったんですけど、でも絶対、このまま太っているわけがない。「背が伸び始めたら絶対やせてくるから」と言っていましたね。

父の指導もあり、ステップは徹底的に鍛えられた

もちろん、自分が指導するクラブで颯斗を教えるのはめちゃくちゃやりづらかったです。颯斗を試合に出す時は、指導者仲間に「俺は颯斗をスタートで使いたいと思っているけどどう思う?」ってみんなに聞いていたし、颯斗には「お前は俺の子どもだから、みんなよりも上の存在にいてくれないと試合に出せないよ」と伝えていました。でもそれもちゃんと克服してくれていましたよ。彼とやれた3年間はいい思い出になっています。

ただ、小学生の時から比べられてきた田中翔真くん(現・東京成徳大4年、正智深谷)は中学校でジュニアオールスターに入って、彼がどんどん上にいっていました。颯斗はいつも比べられて、その度に泣きながら家に帰ってきては、「絶対負けたくない」って言ってこっちが「やめてくれ」と言うまで、家でずっとドリブルをしていました。とにかく彼は頑張ることができる子でした。部活がなくうちのクラブもない日なんかも、朝早く起きて近所を走っていましたし、学校から帰ってきて山奥へ走りに行って迷子になって探しに行ったこともありました。僕が指導者になって見てきた子たちの中で、彼ほど努力した選手はいないと思います。逆に自分がここまでできていたらどうだっただろう、と思ってしまうほどに。

小学時代、ゴール下でのシュートばかりだったのが、中学ではスリーポイントまで打てる力がついた

中学でもうまくいけば全国ベスト4ぐらいまではいけるんじゃないかなとは思っていたんですが、最後の全国大会は予選リーグで負けました。颯斗自身は当時できることを100%やれていたと思います、走る部分以外は。部活を引退したその年の冬、同じぐらいだなと思っていた身長があっという間に抜かされたんですよ。「まじか、やられた」と思いましたね。

一気にやせて躍動、紛れもなくチームの中心メンバーでした

実は颯斗が小6の時、「俺は栃木県に残らないよ。寮がある高校でバスケに集中したい」って言ってきたんです。親としては「小6でそれを言う?」って思いましたよ。でも本人がそれを言ってきて、頑張ってきた姿を見てきたから、何も言えないですよね。LINEがあるのでいつでも連絡がとれる時代になりましたが、それでも彼の背中を見送った時は寂しかったです。寂しいというより心配かな。

それで正智深谷高校(埼玉)に入ってから2~3カ月で一気に16kgやせたんですよ。高校に行ったら絶対やせると思っていたんですけど、予想よりもやせるのが早くてびっくりしました。正智深谷はディフェンスを頑張って速攻を出すようなバスケをするので、頑張る子が試合に出られるようなチーム。颯斗が自分で決めた進学先でしたが、彼に合致していたと思います。

颯斗が寮に入ってからの方が仲良くなったように思います。たまに帰省すると、洗濯物をたたんでくれたり、「雨降りそうだったからこんどいたよ」って洗濯物を取り込んでくれていたり、一気に大人になっていました。彼からバスケに関して質問があれば僕も簡単なアドバイスをしていたんですけど、僕はもう彼をひとりの選手として信用していました。楽しいですよ、彼としゃべっていると。

正智深谷入学後も山口(左)は身長が伸びたが、その一方で、87kgだった体重は卒業するころには74kgにまで減っていた

試合に応援に行くとあまりの駄目っぷりに、なぜか僕が旧知の指導者の方から怒られるようなこともありました。でも3年生での関東大会決勝で、颯斗が市立船橋高校(千葉)だった赤穂雷太くん(青山学院大4年/千葉ジェッツ)とマッチアップした試合はよく覚えています。惜しくも敗れましたがよくプレーできていましたし、その大会を通じてチームの背番号4としての仕事をやっていました。ドリブルもシュートもうまくなって、彼が足りないと思っていた足も速くなりましたし、すごいなと思いながら見ていました。

高校最後のウインターカップ3回戦で、正智深谷は土浦日本大学高校(茨城)と当たって負けたんですけど、この大会にかけてやっているんだなというのがすごく伝わってきて、うるうるしながら見ていました。その最後の試合が終わった時、初めてふたりで写真を撮ったんですよ。「颯斗こっち来い。たまにはふたりで撮ろうや」って。颯斗も「お、おう。じゃ撮ろうか」って感じで、お互い照れくさかったです。その写真は本当に僕の宝物です。

親子で撮った貴重な一枚。互いに照れくさかった

僕より1年早くインカレ優勝「本当にやっちまいやがった」

それから彼は筑波大学に進んだんですけど、僕は拓殖大学だったから、彼も拓殖大学に行くと思っていたんですよ。僕が4年生の時に拓殖大学はインカレで優勝しているんですけど、それからは一度も優勝していません。だから颯斗が優勝してくれたらいいなというのはあったんですが……。彼はいろんな人に相談して、いろんなものを見て、筑波大学に行くことを決めました。

でも僕は複雑な思いでした。筑波大学には全国の名のある選手がそろい、当時は馬場雄大くん(現・メルボルン・ユナイテッド)や杉浦佑成くん(現・島根スサノオマジック)がいて、ひとつ上には牧隼利くん(現・琉球ゴールデンキングス)や増田啓介くん(現・川崎ブレイブサンダース)みたいなスター選手がいました。「ポジションも被るんだし、お前が行っても試合に出られないんじゃないの」って心配でした。

でも、彼はなんだかんだいっていつも試合に出るんですよ。入学した春に馬場くんが退部して、先輩がけがしたことで颯斗も2年生の時にはスタートで試合に出られるようになりました。もちろん彼の努力があってのことですよ。でも、まだ実力不足の颯斗を吉田健司監督が使ってくれて、ツキもあるんだなと思っていました。3年生の時も「俺、スタートじゃないな」と言っていたのに、ちゃんとチャンスが巡ってきた。

山口(前列右端)にとって初の日本一を、父より1年早い3年生の時に成し遂げた

そしてその年にインカレで優勝ですよ。「このやろう! 本当にやっちまいやがった」って思いました。秋のリーグ戦の途中に颯斗は腰を痛めてしまって、「足が全然上がらなくつらいわ」って言っていたんです。でもインカレ直前になって足になんとなく力が入るようになったらしく、1回戦から彼は調子が良くて、自分がプレーヤーだった時よりも素晴らしいプレーを見せてくれました。僕がインカレで優勝した時は、チームメートに北卓也(現・川崎ブレイブサンダースGM)みたいなスーパースターがいる中での僕だったんですけど、颯斗はしっかり自分をアピールしてのチャンピオンじゃないですか。「俺が教えることはなんもねーなー」って改めて思いましたね。

限られた試合、いろんな人の思いを背負って戦ってほしい

やっと4年生になって、今年はスタートでいけるだろうと思っていたところでコロナです。去年あれだけ活躍できていたんだから大丈夫だろうと思っていたのに、ミニバス全国大会中止のことを思い出して、「ああ、またこういう目にあったか」と。

春のトーナメントは間違いなく駄目だろうなと思っていたので、颯斗には「今、お前ができることをしなさい。できることは絶対あるから、それは腐らずやりなさい」って声をかけました。秋のリーグ戦も、この状況下で5部まであるリーグ戦をやるのは厳しいだろうなと私も分かっていました。颯斗も「駄目なものは駄目なんだから」ってドライでした。彼が小学生だった時と同じ感情にさせてしまったなって……。

このコロナがあって、颯斗とはよくLINEで連絡をとっています。少し前まで正智深谷で教育実習があったので、そのことも話していました。正智深谷には弟が通っているので、弟の指導もしたようです。ちゃんと弟や妹の面倒も見ていますよ。今年1月には特別指定選手契約で宇都宮ブレックスでプレーしていたんですけど、その時は家に帰ってました。あれだけ図体がでかくなってごろんと横たわられたら、まぁ、邪魔ですよね(笑)。「お前が帰ってきたら今の生活が崩れるわ」って笑いながら話したもんです。でも楽しいですよ。本当に楽しかったですよ。彼が帰ってきて、弟も妹も喜んでくれていましたし。もちろん、宇都宮ブレックスでの試合も見に行きました。夢が叶(かな)っておめでとう。コートに立てない悔しさを忘れず頑張れよ!

プレーする環境が変わっても、いろんな人への感謝の気持ちを忘れずにいてほしいと父は願っている

彼もラストイヤーになって、まだ試合ができていないのに、もう秋になりました。今の4年生の親は小学生の時のこともあって「またか」っていう思いがあると思うんです。でも後ろを振り返っても意味はないし、立ち止まっても仕方がない。少しでもいいから自分のために前に進んでほしい。彼らの集大成となる試合は、もう10試合もないもしれない。一試合一試合に集中して、筑波大学らしく、山口颯斗らしく、本気になって試合を戦ってほしいです。みんな応援しているんで。彼が教えてもらってきた指導者やサポートしてくれた大人たち、そして仲間。そういう思いを背中でちゃんと感じて、しっかり戦ってほしいと思っています。

彼が高校生になったころですかね。途中から僕は颯斗のことを自分の子どもというか、颯斗のファンになろうと思っていたんですよ。一ファンとして一番近くで応援できる存在になれればいいなと。その一方で、僕が4年生の時に果たしたインカレ優勝を彼は3年生で成し遂げて、悔しい悔しいと泣いていた小学・中学時代をずっと見てきた親としては、山口颯斗の父であることを誇りに思えた一瞬でした。あいつはどう思うか知らないですけどね。

あなたにエール

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