國學院大からホンダに進んだ土方英和選手 走るのが大好きな息子へ、両親からのエール
國學院大學陸上部の主将を3年生から2年間つとめ、この春卒業して実業団・ホンダに入社した土方英和選手。息子の挑戦をそばで見続けてきた父・重樹さん(55)、母・晴美さん(54)から、新しいステップを踏み出した息子へのエールです。
意志のある自立した子どもだった
小学校ではサッカーをしていたという土方選手。だが、リレーの選手になるなど、もともと足が速い子どもだったという。重樹さんは「特にすすめたことはなくて、自分でやりたいと言い出したんですよね」と振り返る。1年生のときに親と離れ、いつもと違うコミュニティでサッカー合宿に行く機会があったが、物怖じせずにどんどん参加していた。「普通あれぐらいの年齢だったら、親と離れるのが不安で泣いたりもするんだけど、ヒデにとっては『誰とやるか』じゃなくて、『何をやるか』のほうが最初から重要だったのかなと思います」
小学4年生の頃にサッカークラブがなくなってしまい、土方選手は今度はソフトボールに誘われた。晴美さんは「それも全部自分で決めてきて。体験も済ませてから、お宅のお子さんが入りたいと言っているんですが、と係の方から電話がかかってきたんです」という。意思、独立心が強く、2人とも「あれをしなさい」と言った記憶はほとんどない。
重樹さんが「自分の子どもにしては運動神経が良すぎるな」と思ったというぐらい、運動は何でもできたという土方選手。ソフトボールではセンターを守り、守備勘もよく周囲から期待されていた。実際「中学校に入ったら本格的に野球をやらないか」という誘いもあった。そんな中、校内のマラソン大会で5年生のときにはじめてライバルに勝ち、優勝した。「やっぱり『走りたい!』っていう思いが強かったんだと思います」と重樹さんが振り返るが、6年生のときは2kmを6分台で走り、ダントツ1位だったという。「その時、陸上に関してこの子は才能があるのかも!? と思いました」。そして2人が驚いたのが、小学校の卒業式でみんなの前で「箱根駅伝に出ます!」と宣言したことだ。
本気で都大路を目指す息子を見守る
中学から陸上部に入ると決めた土方選手。お姉さんも陸上部だったこともあり、春休みのうちから練習を見学、そして参加させてもらった。晴美さんは「とにかく走るのが楽しかったんじゃないかなと思います」という。中1の5月の新人戦では、1500m4分33秒で優勝。「本当に箱根駅伝に出ちゃうかも!? ってその時に思いましたね(笑)」
千葉県に住み、千葉県内の学校に通っていた土方選手だったが、1つ上の先輩に誘われたことがきっかけで埼玉栄高校に行きたいと思うようになる。重樹さんも晴美さんも、「埼玉県の高校なんて、言われるまで考えたこともなかった」と口をそろえる。「(中学)3年生の夏に学校を見学に行ったんですけど、あまりにも大きくて、校内で迷子になるかと思うぐらいのスケールで、びっくりしましたね」と晴美さん。
重樹さんは常々、土方選手が「都大路(全国高校駅伝)に出たい」と言っているのを聞いていたので、実力校がひしめきどの学校が代表になるかわからない千葉県より、埼玉県内でトップの強さを誇っていた埼玉栄に進んで陸上を続けることに納得もしたという。「本当に都大路を目指してるんだなっていう、彼の本気度も伝わってきましたね」
土方選手の希望通り入学が決まり、片道1時間半の通学が始まった。「学校の設備は本当にしっかりしていて、食堂も朝からやっているので、お弁当作りとかはなくて楽させてもらいました」という晴美さん。同級生には館澤亨次(東海大~横浜DeNA)、中村大聖(駒澤大~ヤクルト)などの実力者もいて、レベルの高い環境で陸上に取り組んでいた。だが「高校のときは本当に、彼は苦労したと思います」と重樹さん。「とにかく故障と、あとからわかったんですが、貧血だったんですよね。しかも走れるときは走れてしまって、走れないときは全然走れない、というように波が大きくて。チームでも他に貧血の治療をしてる子がいたんですが、彼がそうだとは全然わからなかったんですよ」
2年生のときには大腿骨の疲労骨折があった。3カ月ほど走れない期間があり、その後復帰した埼玉県予選でアンカー、優勝のゴールテープを切った。重樹さんは「これが彼の高校での競技のピークですね」という。この後にも足を痛めてしまい、都大路はメンバー入りするも走れずだった。
苦しい期間、心配が絶えなかった
3年次も、夏合宿すぎぐらいからあまり調子がよくなかったと晴美さんは感じていた。「気をつけて食事をとっていても、2kmをすぎたところからいきなり走れなくなるのが明らかに変じゃない? って。体の成長と食事、休息などを総合的に考えて、練習量に見合う体にまだなってなかったのかなと今では思いますね」
重樹さんは息子を心配してスポーツを専門にしている医師に相談した。「貧血か喘息だと思う、と言われて……正直、まったく貧血の可能性を考えていませんでした。普通に生活する分にはまったく問題ありませんでしたから。もうちょっと早く気づいてあげられれば良かったなと……」。晴美さんも「気持ちが足りないので走れないのではないか、と考えたりもしたんですが……気持ちの問題などではなく、どこか体に原因があるのかもと思い直しました」と振り返る。結果的に血液の専門医から貧血だと診断され、鉄分の錠剤で治療を始めた。しかし都大路の部内セレクションには間に合わず、メンバーに入れなかった。
それまで弱音を吐かなかった土方選手だが、このときだけは帰ってきて居間に座り、ポツリと「都大路落ちた」と言った。実力はあるので、補欠でも入ると思っていた重樹さんが思わず聞き返すと、親の顔を見ずに「都大路で区間賞を取るのが夢だった」と言った。「その時だけですね、彼が弱音らしいものを口にしたのは」
今でも高校生には同じような症状で苦しむ選手がいる。「だから、もしそういう話を聞いたときは貧血の可能性をお伝えするようにしてます。体力があるからある程度は走れちゃって、気づきにくいんですよね」
「だからそんなわけで、高校時代の写真はほとんどないんですよ」と重樹さん。「本当に苦しかったと思います。でも、本人もあの時があるから今があると言ってて、本当にそうだと思います。今でも都大路は必ず見ていて、出られなかった悔しさを思い出すみたいです」。晴美さんも「出たかったんでしょうね、心残りだと思いますよ」と息子の心中を思う。
順風満帆の國學院大での4年間、前田監督に感謝
苦しかった高校時代とは一変し、大学では4年連続箱根駅伝を走り、年々チームの成績も上昇。「4年間箱根駅伝を走れる人なんて、(学生全体でみて)1つの代で10人ぐらいしかいないのに、その中にうちの息子が入ってるなんてすごいなと思います」と晴美さん。重樹さんは「前田さん(前田康弘監督)には感謝しかない」という。「高校2年の秋に声をかけてくれて、3年で調子が悪くても見捨てないでくれて……本当にありがたいと思いますね。それに、うちの息子に限らず高校ではそこまで目立たない選手に声をかけて、あそこまでのチームにしている。本当に見る目がある方だなと思いますよ」
土方選手が1、2年のときは立川の箱根駅伝予選会に、そして4年間通して箱根路に。全日本大学駅伝も、出雲駅伝も現地に応援に行った。「駅伝には彼が出ているときは全部行きましたね。日本インカレなどの試合も積極的に応援に行くようにしてました」。息子の応援を通して大学駅伝のファンになった2人は、國學院大學がシード権を取ってからも箱根駅伝の予選会を見に行ったりと、新しい趣味を楽しんでいる。
大学3年から2年間キャプテンを努めたことについては、重樹さんは「もともとキャプテンシーのある子なので、できるだろうなと思ってました」という。晴美さんは「大学に入ってからは、『チームでどう強くなるか』をずっと考えてたみたいですね」。家を出て寮生活を始めたこともあり、言葉を交わすことは少なくなった。試合に行っても結果によっては話しかけないこともあった。しかし昨年10月の出雲駅伝で初優勝を決めた時、ゴールテープを切った土方選手はその先にいた両親に駆け寄って抱きついた。「あんなことは初めてだったので、びっくりしましたけど、嬉しかったですね」と2人は思い返す。
今年から実業団・ホンダに進んだ土方選手。チームにはマラソン前日本記録保持者の設楽悠太をはじめとしたトップレベルの選手がひしめき、同期には伊藤達彦(東京国際大卒)と青木涼真(法政大卒)がいる。「この自粛期間で時間があったのもあると思いますが、大学の時より連絡してきてくれるんですよ」と重樹さんは嬉しそうに話す。「周りがみんなすごい選手ばかりだって言ってます。でも、楽しそうにしてますよ」。小さい頃から走るのが大好きだった息子の、その活躍をこれからも見守り続ける。