陸上・駅伝

96年中大優勝時の経験は2人にどう生きているか 大志田監督×榎木監督対談3

1996年の箱根駅伝、32年ぶりの優勝のゴールテープに満面の笑みで向かうアンカーの大成(撮影・朝日新聞社)

箱根駅伝2位の創価大学・榎木和貴監督と10位の東京国際大学・大志田秀次監督は、96年に中央大学が総合優勝したときの選手と指導者(肩書きはコーチ)という関係だった。2人の対談の3回目は、96年の中大総合優勝時のことを話し合っていただいた。今とは状況が異なる部分、時代は違っても目指さないといけない部分など、今の視点でも興味深い内容となった。

チームにとっての4年生の存在と、メンバー起用の決め手 大志田監督×榎木監督対談2

96年の中大優勝時の指導法とは?

――当時の記事を読むと、大志田監督は選手とのコミュニケーションをかなり重視されていた、ということですが?

大志田秀次監督(以下、大志田) :あの頃は本田技研(現・Honda)のコーチだったので、中大には主にポイント練習に合わせて行っていました。少なければ週に1回、多く行けたときでも3回。それ以外の練習はマネジャーに報告してもらっていましたが、選手と話をしないと普段のことがわかりません。なので練習に行ったときには、できるだけ選手の話を聞くようにしていました。(榎木監督に)あの頃は40人くらい長距離部員がいた?

榎木和貴監督(以下、榎木) :そうですね。各学年10人くらいでした。

大志田: 全員と話すのは不可能なので、キャプテンや主力選手たちと練習の狙いなどを話しました。僕がいないときは彼らに判断してもらわないといけませんでしたから。上げるべき時に抑えたり、上げなくてもいい時に上げてしまったりしないように。どのメニューも納得してやってほしかったのです。練習を変えたなら、その内容をこちらがわかっていないのもよくありません。そのための時間は割きましたね。そうせざるを得なかったのです。

中大時代、「優勝するチームとは?」と選手たちに問いかけたという大志田監督(撮影・藤井みさ)

榎木: 私たちが2年生のときから大志田さんの指導体制になったんですが、顔を合わせると「どう?」と状態を聞いてこられました。1週間前のポイント練習はこれだったけど、痛いところはないか、とか。そうして確認していただいて、選手の状態が悪ければメニューの修正がありますし、順調ならポイント練習の質を上げるなど、調整してくださいました。当時の上位校は専属の指導者がいましたから、中大の選手は環境の違いを理解して何をすべきか理解していました。

大志田: 先ほども言いましたが、榎木の箱根駅伝は3年時まで完璧でしたね。最初から突っ込む走りではないのですが、レベル自体が高いから前半も遅くはない。そして後半でしっかり上げてくる。僕の理想とする走り方でした。当時の中大は2区の松田は最初から速く入れるタイプでしたが、全体的には20kmをしっかりまとめる走り方でしたね。今年の東京国際大もその走り方です。

榎木: 中大が優勝したときは8区の川波(貴臣・4年)さんが前半からガツンと入ったので、残り5kmは失速するんじゃないか、みんな心配していたんです。

3年生までは完璧に箱根駅伝を走れたという榎木監督(撮影・藤井みさ)

大志田: あのときは往路が終わって早大に2分半くらい負けていましたが(正確には2分15秒)、6区の工藤利寿(3年)で詰めればいいと思っていたら、工藤がトップに立ってくれた。7区の前田敬樹(3年)が白石高の後輩の山崎慎治君(早大1年)に抜かれて一時は30秒くらい離されたんです。しかし先輩の意地を見せて、最後の5kmで並んで少しだけ先着した。

榎木: 本当に何度も並ぶデッドヒートで、最後で5秒前に出たんです。

大志田: そこで8区の川波が最初から逃げて、最後まで走りきってくれた(1時間05分48秒の区間賞&区間新)。それが決定打になりましたね。

以前のようなハードな練習を今の時代、どうやって行うか

――当時の練習と、今やっている練習に違いはありますか?

大志田: 練習の変更、調整はしたけど、中大が優勝した頃の練習は今よりもハードな内容を行っていました。量とか質とか。今の方がレースのタイムは良いんだけど、あの頃の方が間違いなく強かったと思う。

榎木: キツかったですもんね。

大志田: 創価大では同じような内容をやっている、と記事で読んだけど、それがベースとしてできているなら創価大の強さは揺らがないと思った。練習のスタイルというところでは、何をベースにやっているの? 質なのか、量なのか、パターンなのか。

榎木: 最低限の量はやっておかないと、と思ってやっています。中大で優勝した頃、箱根駅伝前の11月、12月も平均で月間800kmは走っていました。今、創価大では1年を通じて月間750kmを目標にしています。そこまで行かない選手もいますが、今回の箱根駅伝を走った10人中8人は、箱根の調整期間を含めて800km近く走っています。チーム全体がこれだけ練習できていれば、区間の後半でも崩れない手応えを持てます。ポイント練習も大志田さんのメニューを参考にさせてもらっています。当時、時差スタートの16km走とか、5km4本とか、メニューを見ただけでこの練習に合わせなければいけないな、とわかりました。狙いどころが明確で、そこでしっかり走らないとメンバーに絡めない。月に3~4回、試合に近いポイント練習を組み込んで行っているのが創価大のスタイルです。

中大時代のことを思い出し、その時の練習の方が間違いなくハードだという2人(撮影・藤井みさ)

大志田: 僕が東京国際大に来たのは11年で、中大と同じことをやろうとしたらまったくできなかった。10マイル(約16km)をやって、余力があったら20kmを走らせようと思って、2年間は距離走を中心に同じことをやってみた。やってみたけど無理だったので練習パターンを変えるしかなかった。12kmなら走れたので、それができたら4kmプラスして16kmをやって、それができたら20kmをと考えた。ただ単に20kmに到達させるのでなく、当面は16kmを中心にやって、その頃から色々な練習法の情報が入り始めたので、パターンも色々変え始めた。箱根駅伝に初出場(16年)した頃には、選手たちから30km走や40km走をやりたいという意見が出てきたこともあった。やり方を変えて試行錯誤しているけど、固定した練習パターンはできていないのが正直なところだったので、今、ヒントをいただいたかな。今日はありがとうございました(笑)。

モチベーションの高め方

――選手たちのモチベーションやその高め方は、当時と今とでは違うのでしょうか。

大志田: 中大はつねに優勝を目指すことが宿命づけられていたけど、じゃあ優勝しよう、というと選手たちはポカーンとしていました。それが、僕がコーチになったとき、「優勝するぞ」と言うと榎木たち選手も「優勝を目指しましょう」と応えてくれた。「優勝するチームはどんなチームだ?」と問いかけたら、選手たちが率先して練習してくれました。

あの頃は神奈川大、山梨学大、早大、中大が4強だったけど、中大の評価はつねに4番目。それを覆そうという気概を持てたのはやはり、95年の全日本大学駅伝の8区で渡辺康幸選手(早大、現住友電工監督)に1分31秒差を逆転されたことがきっかけでした。あれが選手みんなに火をつけたと思う。そういった導火線があるから、それに火をつけてあげることが大事だと思う。そういった部分を考えて創価大を見ると、そういうチームに変わってきている。

95年の全日本大学駅伝、最終8区で松田(左)は2分以上あった差を渡辺に逆転され優勝を逃した。その悔しさが原動力となった(撮影・朝日新聞社)

榎木: 目標設定に関しては、ウチのコーチ兼コンディショントレーナーが過去のデータを集約して、チームや選手個々に合った目標設定ができています。駅伝マニア的に細かいデータを揃えてくれるので、数字を示して選手がやる気を持てる目標設定をしています。例えば前回の箱根の結果から9位だったウチと、10時間54分台だった3~6位グループに4分半~5分の差があるのですが、100%力を出し切れていない区間がどれだけあって、どうやったら埋められるかを色々な選手の過去のデータと照合して出すことができます。

――96年当時の中大は、渡辺康幸選手に抜かれたこと以外ではどんな方法でモチベーションを上げていたのですか。

榎木: 大志田さんのメニューの組み方もモチベーションになりましたが、練習の半分以上は選手たちに任されているわけです。自分たちから優勝を目指すために何をしたらいいか、話し合いました。2時間走を走りながら、次の駅伝の区間配置を考えて、楽しむ側面が強かったですけど口にしていました。そのオーダーを組むためには、こんな練習が良いんじゃないかと、個々のメニューまで話し合いをしました。実業団の合宿に参加した選手が「こんなメニューをやっていた」と、情報交換をしていました。

大志田: 旭化成は朝練習のジョグがすごく速くて、それを参考に松田は(1km)3分50秒くらいで走っていた。全員がそれについて行くと潰れてしまうけど、榎木が4分00秒くらいで走ってくれたので、松田のところで走る選手と榎木のところで走る選手とに分かれて、良いパターンで練習ができていたと思う。

榎木: 旭化成が1日で30km走を2本やっていて、次の合宿でやってみませんか、と大志田さんに選手たちから提案したこともありましたね。ゴールした選手は少なかったですけど、そうしたチャレンジができるチームでした。

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