陸上・駅伝

特集:佐藤悠基 The Top Runner

記録や勝利より、うまくいかなかったことのほうが覚えている東海大4年間 佐藤悠基3

大学3年のとき、出雲駅伝でアンカーを務め3連覇のゴールテープを切った(撮影・朝日新聞社)

常に日本男子陸上長距離界の第一線を走り続けてきた佐藤悠基(34)。彼はどんな思いで競技に取り組んできて、そして今後何を目指していくのか。ロングインタビューの第3回は、今も残る箱根駅伝1区の区間記録のこと、そして大学時代に陥ったスランプについてです。

東海大学で1年から箱根駅伝に出場、痙攣しながらも区間新記録樹立 佐藤悠基2

思いがけず単独走になった箱根1区

東海大2年の秋には、出雲駅伝のアンカーを走り区間賞。優勝のゴールテープを切った。そして翌年の箱根駅伝、佐藤の姿はスタート地点にあった。区間配置は監督とコーチが決めたので、特に希望していたわけではないのだ、と当時のことを思い出す。前年の箱根駅伝の前と同様、調子はよくなかった。どれぐらいよくなかったかというと、最終の刺激で5km15分かかるほどだった。「だからノープランで、最初の10kmはついていって、あとの10kmは考えよう、って思ってました」

読売新聞社前をスタートして、すぐ左折。と同時に、東洋大の大西智也が飛び出したので、佐藤もそこについた。「よく、飛び出すことは決めてたのか? って聞かれるんですけど、全然決めてなかったんですよ」。200mぐらい大西と並走したら、後ろがすでに離れていた。「1km、2km走ってみたら意外と動きがよくって、行っちゃえって」。2kmすぎて大西を引き離すと、あとは終始単独走になった。

痙攣はあったものの、自分のリズムだけに集中して気持ちよく走れたとこのときのことを思い出す(代表撮影)

「7kmぐらいで後ろを見たらまったく見えなかったので、自分のリズムだけに集中して気持ちよく走れましたね」。途中で足の痙攣は襲ってきていたものの、結果的にそれまでの渡辺康幸さん(現・住友電工陸上部監督)が持っていた記録を7秒更新し、1時間1分06秒の区間新記録を樹立。2位に4分1秒の大差をつけたが、これは「たまたま後ろが牽制してたから」だという。

この時の記録はまだ破られておらず、2021年時点では箱根駅伝の最も古い区間記録となっている。今でも記録が残っていることについて、どう思いますか? そうたずねると「破られたら破られたで多少悔しいと思うけど、破ってもらわないと困るな、とも思います。チャレンジしていってほしいですね」。自分も高い壁にチャレンジしていったから強くなれたという気持ちがある。「でも、記録が残ってるおかげで今でも箱根駅伝関連のお仕事をいただけたりもするので、残っていて欲しい気持ちも多少ありますね」とすこしお茶目な一面も見せる。

謎のスランプに襲われ、満足いく走りができない日々

佐藤が大学3年の時に大阪で世界陸上が開催され、翌年には北京オリンピックがあった。もちろん大学での大きな目標はそこに置いていたのだが、3、4年は競技を続けてきて唯一走れない時期、スランプに陥ってしまった。トレーニングはしっかりできているのに、いざ試合になると走れない。それまでレースの時に感じられたワクワク感や楽しみという気持ちも感じられず、逆にレースを迎えるのがおっくうだと思うようになってしまった。

そんな中でも秋シーズンには出雲駅伝でアンカーを走り、東海大の3連覇に貢献。1週間後の静岡県長距離強化記録会10000mを27分51秒65で走り自己ベストを更新、これが自身初の27分台だった。年が明けての箱根駅伝では、復路の7区にエントリー。1時間02分35秒で区間新記録を樹立、これで1年生から3年連続で区間記録を更新したが、「完全な失敗レース」だと振り返る。

3年時の箱根前取材での佐藤。1年から区間新を出し続けている彼への注目は年々高まった(撮影・朝日新聞社)

「レースに合わせにいけませんでした。後半にアップダウンがあるコースなので、前半をもっと落ち着いて入ればよかったんですが、突っ込んでしまってやはり後半に痙攣がきてしまいました。うまく走れなかったというイメージしかないですね」。チームとしても10区のアンカー・荒川丈弘(4年)が京急の踏切で線路の溝に足を取られ、右足首をひねってしまい残り2.2kmのところで途中棄権。後味の悪さが残ってしまった。

ラストイヤーは個人の結果を諦め、チームのために徹する

4年生になってもスランプは続いた。今考えると、春先にアメリカのレースに出た時にふくらはぎの軽い肉離れを起こし、微妙にずっと痛かったのだという。走っていても思いっきり踏み込めず、知らず知らずのうちにバランスを崩していたのが原因かもしれない、と思い返す。

あまりにも走れなさすぎて、吹っ切れていたほどだった。10000mで北京オリンピックの参加標準記録Bを突破していたため、日本選手権に勝てば出場の可能性があった。しかし、レースに出ても走れないのは自分が一番わかっていた。だったら、この1年間は力を貯める1年間にしよう。チームの最上級生として、最低限駅伝はしっかりと取り組んで、個人的な記録や勝負についてはすっぱりと諦める、と切り替えていた。日本選手権の出場権もあったが、出るのをやめた。結局北京オリンピックには、大学生からは同い年のライバル・早稲田大の竹澤健介(現・大阪経済大学陸上部コーチ)が出場した。彼が走っているのを見て、悔しい気持ちもあったけど、応援する気持ちもあった。悔しい気持ちをトレーニングにぶつけて、次の年に頑張ればいい。そう思っていた。

同学年のライバル・竹澤は北京オリンピックに出場。悔しいが応援する気持ちも大きかった(撮影・朝日新聞社)

東海大学は出雲駅伝で前年優勝していたため、シード校で出場権があった(上位3校までのシード権制度は2016年まで)。しかし箱根駅伝を途中棄権していたため、予選会に出場する必要があった。出雲駅伝が月曜日にあり、その週の土曜日が箱根駅伝予選会、さらにその2週間後が全日本大学駅伝という超ハードスケジュールとなった。

出雲駅伝ではアンカーを担当。箱根駅伝予選会も走ったが、10kmをレースペースで走った直後の20kmはダメージが大きかった。決して彼にとって速いペースではなかったのに何度も足が痙攣し、そのたびに止まった。「チーム内順位をずっと考えながら走ってたんですが、3回ぐらい止まってるんだけどまだ7番ぐらいで。自分のタイムが結果に影響するから頑張らなきゃと思って走りきりました」。新居利広監督は苦しんでいた佐藤を見ていて、「駅伝も無理しなくていいよ」と声をかけてくれた。全日本大学駅伝は欠場。最後の箱根駅伝では1年次と同じ3区を走ったが、区間賞は竹澤にゆずり、4年連続の偉業達成とはならなかった。

失敗したことをよく覚えている大学時代

大学4年間を思い返すと、「マイナスの方が大きいかも」と笑う。「唯一と言っていいほどよくわからない、走れない時期だったので。そのイメージが大きいです。あとは、全日本大学駅伝の予選会でやらかすとか、チームに迷惑をかけて申し訳なかったこととか……そんなことばっかりがすぐ出てきますね」

練習はできているのに走れない。4年生のときはずっとスランプだった(撮影・朝日新聞社)

自己ベストを更新し、着々と記録を伸ばしてはいたが、それについては「結果を出すことに慣れていたというか、(記録や結果を)出すのが当たり前だと思っていたので」。走れた時の記憶はあまりなく、走れなかった、負けた時の記憶が大きく残っている。2年の海外遠征のときも、記録を出したことよりも3回レースを走って3回とも竹澤に負けたことが印象に残っているのだという。

とにかく実業団に行ったら、切り替えて頑張ろう。佐藤は日清食品グループに進み競技を続けることになる。

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ついにつかんだ世界の大舞台、思い知った日本人の弱さ 佐藤悠基4

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