サッカー

名古屋・森下龍矢 “最強明治”時代に就活 その学びがプロになった今にも生きている

森下はプロ1年目から鳥栖で定位置をつかみ、昨年12月に名古屋へ移籍した(写真提供・名古屋グランパス)

2019年度の大学サッカー界で、明治大学は突出していた。関東リーグ、総理大臣杯、インカレ、さらにアミノバイタルカップと東京都サッカートーナメントも制して、5冠を達成したのだ。そのチームの最後のゴールを決めたのが、当時4年生だった森下龍矢(23)。プロ1年目から活躍して名古屋グランパスへの移籍を果たすなど注目を集めているが、“最強明治”と自身のスタート地点は、まず自分たちの弱さに向き合うことだったと話す。

5冠達成は「個ではなく、チームとしての力」

19年12月22日、10年ぶり3度目の優勝を目指す明治大と、初出場ながら勝ち進んできた桐蔭横浜大学とのインカレ決勝は、90分間では決着がつかなかった。スコアが動かなかった試合は、延長戦に入ると突然動き出す。防戦一方だった桐蔭横浜大が、先制に成功したのだ。

しかし、そこから明治大が底力を発揮した。ビハインドを負った4分後にはPKで追いつき、さらに2分後には逆転。延長後半には2点差とするダメ押し点まで奪い、試合の行方を決めた。試合終了の笛が、5冠という偉業達成を告げた。

4年生の時に5冠を達成し、同期は9人がプロに進んだ(撮影・うさみたかみつ)

そのチームの4年生の内、9人がプロの世界へと羽ばたいた。20年のJリーグ初得点を挙げた瀬古樹(現横浜FC)ら、多くがルーキーイヤーから活躍した。それだけの実力者がそろっていれば、5冠達成も当然なのかもしれない。だが、インカレ優勝を決定づける5冠チームの最後の得点を挙げた森下は、「強かったのは個ではなく、チームとしての力だった」と語る。その最強チームは、自分たちの弱さを自覚することから始まった。

トップチーム入りに苦しんだ世代が磨いた「協調性」

例年、1年生から2~3人はトップチームの練習に入り、誰かは試合に出られるものだった。だが森下らの代は、その例に漏れた。周囲の視線も冷めていく中、必死に生き残りの策を探した。「オレたちは弱いから、どうやって先輩を越えていこうかと考えていました。毎日、学年ミーティングをしていましたね。寮生活でも、誰かがミスをしてしまったら、普通は先輩に謝ったり、同期同士で反省すると思うんですけど、僕らはそのミスをどうやってごまかすかをみなで考えていました(笑)。チーム単位で考える癖というのは、弱かったからこそ身についたんだと思います」。その強みを、森下は「協調性」と表現した。

森下自身も、入学当初はプロになる自分の姿を明確に思い描くことはできなかった。ただし、森下には独自の力があった。「1年生の時はプロになる確信なんて、全くありませんでした。でも、自分の可能性を信じる力は結構ある方だと思うんです」

当初は、その前向きな姿勢が悪い方に出た。「(入学前には)U-18の日本代表に入っていて、『今の自分』にすごく自信を持っちゃっていました。今の自分に自信を持つって、すごい過信ですよね。『自分の可能性』にいくら自信を持っても、過信にはならないと思います。でも、当時はそれに全然気づいていませんでした」

就活で自分を見つめ直し

2年生になっても、先発定着には至らなかった。転機を迎えたのは、3年生になった年だった。リーグ開幕でスタメンを飾った後、先発から外れる時期に入ったが、栗田大輔監督の厳しい指摘で自分を見つめ直した。アミノバイタルカップでは得点王となり、上昇気流に乗った。それに続いてやってきた、もうひとつのきっかけがあった。就職活動である。

3年生の10月、リクルートスーツに袖を通した。調子も上がってきただけに、プロ入りのタイムリミットが近づく中、よりサッカーに集中するという選択肢もあっただろう。だが、森下は違った。「サッカーしかなくてサッカーの道に進むのは嫌だなあ、と思ったんです。色々な選択肢の中から、本当に自分が納得するものを選びたいと強く思っていたので、就活したんです」

就活では、自分の長所を「突破力」と自己分析した。協調性を強みとするチームの中で個性を発揮するという、自分のプレースタイルと重なるものがあった。

「長所は何ですかと聞かれた時には、どんな課題に対しても力強く解決できる突破力と答えていました。僕はサッカーでも切り込み隊長でしたが、協調性を大事にした上でのことです。突破力って、協調性とは相いれないものかもしれません。でも、協調性を理解しながら突破力を使えば、組織からの見え方は全然違うものになると思うんです。単に変なドリブルをしても意味がありません。チームがあっての突破力だと、明治大学で学びました」

就活をしたことでより自分のことを知ることができたという(撮影・うさみたかみつ)

就活での自己分析は、サッカー選手としての自身を見つめ直すことにもつながった。就活自体が、選手としての成長につながることを感じたという。

「企業の方に聞いてもらって、面接の中で自己分析を確信に変えていくタイミングがあるんです。そうすることで自分の強みや、逆にネガティブになってしまう場面があることなど、自分を深く知れたのはすごく重要なことでした。それが直接サッカーにつながってきたと、その時期はすごく思いましたね。自己分析すればするほど、サッカーがうまくなるみたいな。本当にそういう時期がありました」

努力が実り、大手保険会社から内定を受けた。それからしばらくして、サガン鳥栖からのオファーが届いた。熱望していたプロ入りのはずだったが、森下はすぐには決断を下さなかった。「サッカーしか選択肢がない状態でプロの世界に行くのは嫌だという気持ちから始めた就活でしたが、ものすごくいい企業に出会うことができました。その会社で働く自分の想像もものすごくできたので、いい意味でものすごく悩みましたね」。会社員として働く自分の姿を思い描くこともできた。だが、「プロになってのキャリアの方が鮮明だったんですよね。だからサッカーを選んだのかもしれません。ワールドカップで優勝したいとずっと思っていたので。それのためにプロになろうって決めました」

自分の可能性にかけ、鳥栖から名古屋へ

プロ入りした森下は、1年目から開幕スタメンをつかんだ。その20年、前述の瀬古以外にも、FC東京では安部柊斗と中村帆高が主力として活躍した。「プロになってすごく思ったのは、個の力だけじゃ試合に出られないということです。チームのいわゆる歯車、一員としてどうやって自分の力を出していくか。かみ砕いて言うと社会性ということになるのかもしれません。協調性とか、僕らのサッカーだけじゃない部分はプロになってから活躍するひとつの理由なんじゃないかなと、僕は思っていましたね」。“最強明治”が選んだ道は、やはり間違っていなかった。

5冠を達成した仲間が活躍する中でも、森下にとっては特別な1年となった。シーズンが終わった後、3位へと躍進した名古屋グランパスから移籍のオファーを受けたのだ。

3位へと躍進した名古屋で森下は自分の力を試したいと考えた(写真提供・名古屋グランパス)

名古屋移籍にあたっても、自己分析が生きた。もしも会社員になるとしても、独立しての起業や、専門性を高めての転職など、可能性を広げる道を想像していた。つまり、ヘッドハンティングのシミュレーションはできていたのだ。

移籍にあたっては、これまでで一番と言っていいほど、自分を深く見つめ直したという。「鳥栖では僕のやりやすいようにやらせてくれたというか、そういう戦術にしてくれていたんです。名古屋はチームにある程度の型があって、3位になりました。できあがっているサッカーに入っての順応能力は、今後上に行くにあたって重要になると思ったんです」。自分の可能性にかける道を選んだ。

チームのルールを守りながら、自分の良さをどれだけ出せるか

転職であれサッカー選手の移籍であれ、環境の変化というチャンスはリスクも伴う。メンバーも固まり、堅守という戦い方も浸透している名古屋で、新加入選手が出場チャンスを得るのは簡単なことではない。

だが、現状打破のための方法論はある。「最初は、どうやったらチームに入り込めるかを考えていたんですけど、それはちょっと違うなとキャンプが終わった頃から感じ始めました。みなに合わせていくのではなく、自分を知ってもらって、自分に合わせてもらうのも、すごく大事な適応能力だなと思ったんです。チームのルールを守りながら、自分の良さをどれだけ出せるかを、すごく意識しています」。協調性の中での突破力は、明治で育んできたものだ。

名古屋で自分の良さをどのように生かしていくか。その先に日本代表も見すえ、挑戦を続けている(写真提供・名古屋グランパス)

森下が左サイドバックのポジションを争う吉田豊は昨季の主力で、今季も絶好調。なかなかメンバーに入れない日々が続くが、そんな現状も悲観せずにまっすぐ見つめる。「吉田選手という壁は、本当に高いと思います。だからこそ、それを越えた時には日本代表が待っていると本気で思っています」

大学生活で大きく成長したが、いつまでも変わらないものもある。森下は常に、自分の可能性を強く信じている。

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