國學院大・伊勢路初出場メンバーの青野敏之さん! 今はランニング界に恩返しの日々
今回の「M高史の陸上まるかじり」は青野敏之さん(38)のお話です。國學院久我山高校では全国高校駅伝に出場、國學院大學では箱根駅伝や全日本大学駅伝にも出場しました。大学卒業後は料理人、ブライダル業界を経て、現在はランニングシューズ・ウェアでおなじみのオン・ジャパン株式会社のセールスとして、ランニングに携わっています。
國學院久我山高校では、都大路に2度出場
東京都出身の青野さん。陸上をやっていたお兄さんの影響で、中学から陸上部で長距離を始めました。
「2年生までは、1500mも5分30秒をやっと切れるかくらいでした。早生まれということもあってか体の成長が遅く、中2から中3にかけて15cmくらい身長が伸びて、自然とタイムが伸びていきました」。身長もグッと伸びた3年生のシーズンは、3000mも9分43秒まで記録も伸ばしていきました。
高校は東京都の強豪・國學院久我山高校へ。「同級生の中でも一番遅いタイムで、最初は全然ついていけなかったですね」。青野さんの同級生には強い選手も多く、中でも山口航さんは、後に法政大学で箱根を走り、実業団でも活躍されました。
「久我山は学校の決まりで朝練が禁止で、完全に1部練でした。距離も走って15kmくらいです。どちらかというとスピード練習の設定タイムが速く、質が高い練習をしていました。高1の春の記録会で5000m17分16秒でしたが、夏合宿を経て秋の記録会で15分35秒まで伸ばすことができ、気がついたら練習でも上位に入るようになっていました」
その後も記録を伸ばしていき、チームとしても高校2、3年と連続して全国高校駅伝(2000年、2001年)に出場。青野さんは2年生で7区、3年生で3区を走りました。
「2年生では直前に食中毒に見舞われましたが、なんとか走ることができました。3年生の時は5000mも14分31秒まで伸びて、その年の東京都高校ランキングでトップだったんです。3区は、とにかくずっと上っているキツいコースでした。個人では区間23位であまり良くなかったのですが、チームとしては良かったかなと思います」。当時、東京都は都大路でなかなか通用しないと言われていたそうですが、2時間08分49秒で26位に。東京都代表としても久しぶりに2時間10分を切るタイムとなりました。
「高校時代、振り返ってみたら本当に楽しかったですね。久我山に入って良かったと思える3年間でした」。高校時代の仲間とは今でも毎年のように顔を合わせるそうです。
國學院大では、箱根駅伝のアンカー
高校卒業後は、國學院大へ。「寮生活だったり、2部練習になったり、走る距離も増えて最初はやはり戸惑いました。当時は大学もまだ土のグラウンドで、距離も300mちょっと(312.5m)、微妙に上り下りがあって走りづらいグラウンドでした。コーンを置いて、1000m地点はここみたいな感じで走っていました。雨が降ったら走れなくて、織田フィールドや府中の300mトラックに行ってよく練習していました。なので、400mトラックで走るときは快適でしたね(笑)」
2年生だった2003年、國學院大は全日本大学駅伝(第35回)に初出場。青野さんは4区を走りました。國學院大は神道が母体の大学ということで「スタートが熱田神宮、フィニッシュが伊勢神宮で盛り上がっていましたね!(走りの方では)襷(たすき)をもらった順番で、誰とも競らずに襷をつなぎました(笑)。自分との戦いでしたね」。4区を走り区間15位。チームとしては13位で初の伊勢路を終えました。
3年のシーズンは腸脛靭帯(ちょうけいじんたい)炎など、故障に悩みましたが、4年生になり箱根駅伝のメンバー入りを果たしました。「日本橋出身なのですが、地元を走る10区を走りたくて、当時の鈴木博之監督に直訴しました」。ただ、青野さんは下り坂が得意だったそうで「監督からは『本当は6区がいいんだよなぁ』と言われつつ、最後にシード争いなどのラスト勝負を考えた時に、『青野がアンカーの方がいいか』と10区を任せていただくことになりました」
青野さんが4年生だった第82回箱根駅伝は、往路から復路までレースが荒れに荒れ、相次ぐ逆転の末、亜細亜大学が初優勝を飾りました。上位争いだけでなくシード権争いも、終盤まで大混戦でした。
國學院大は9区終了時点で、10位まで1分27秒差の14位。アンカー10区で襷を受け取った青野さんは、「中継前に監督からの電話で『行け!』しか言われませんでした(笑)。襷をつないでからはとにかく前を追いましたね。途中で(シード争いを中継している)中継車が見えたのですが、その時にはスタミナ切れで後半はペースダウンして、ジョグのようになってしまいました」。後半ペースを落とし、結果的に区間最下位となってしまいましたが、最初で最後の箱根駅伝は、シード権を目指して果敢に攻めました。
「学生時代は、体調を崩して寮を出て自宅に戻った時期もあったり、腸脛靭帯炎で大学3年のときは走れなったり、山あり谷ありでしたが、全日本や最終学年では箱根で地元を走らせてもらえて、いま振り返ると良かったなと思いますね」
ご家族の応援にも支えられた学生生活でした。
料理人、ブライダル業界を経て再びランニングの世界へ
大学卒業後は陸上を離れて料理人の道に進みました。「実は両親が日本橋・人形町で佐々舟(ささふね)というラーメン屋をしているんです。あっさりの中華そばで、最近の話題のガツン系ではなくて『365日毎日食べられるようなホッとするラーメン』ですね。最初は実家を継ごうと思って、いろんなところで修行をしていました」
居酒屋、中華屋、実家のラーメン屋で3年間ほど働いていた青野さんでしたが、その後は飲食業を離れて、ブライダル業界に転職します。
「貸衣装や美容室の会社に勤め、最初は新郎や列席の衣装コーディネーターをしていました。元々、服は好きで興味はありました。特殊な職業ですが、楽しかったですね。結婚式当日の新郎の衣装合わせもしていました。時間帯によって着る衣装が変わったりするので、そのあたりはかなり勉強もしましたね」
大学を卒業してから、しばらく走ることから遠ざかっていた青野さんでしたが、「勤めていた会社のすぐそばが東京マラソンのコースだったんです。2013年の東京マラソンに出ることになって、ランニングを再開しました。初めてのマラソンは2時間46分で走り切りました。30km以降はキツかったですが、絶対歩いちゃいけないなと思って走り切りましたね」。さらに2度目のマラソンでは、2時間45分と記録も伸ばしました。
ブライダル業界で7年間勤めたあと、オン・ジャパン株式会社に転職されました。ランニングシューズやウェアでも人気な、スイス生まれのOn。最近では阪口竜平選手も所属されるなど、国内でもアスリートから市民ランナーさんまで広く愛されています。
オン・ジャパン株式会社は2015年に設立された会社で、初期メンバーの1人が青野さんの高校の同級生・鎌田和明さんでした。
「Onのことは知っていました。鎌田が働いているし、とりあえず一足買ってみようかなと。買って走ってみたら 今まで履いてたレーシングシューズよりも速く走れたんです。しかも靴ひもがゴムになっていて、結ぶ必要がなくスッと履けますし、ホールド感もある。このシューズが本当にすごいと思い、Onを日本全国に知ってもらいたいなと思いましたね」。ランニングに関する仕事をしたいと思っていたこともあって、青野さんは2017年にオン・ジャパンに入社されました。
現在のお仕事について伺うと「楽しいの一言ですね!シューズを売るだけの営業だけではなくて、全国各地を飛び回ってランニングクリニックやイベントもさせてもらっています。自分の学生時代に比べて、市民ランナーさんの人口も増えて、皆さん一人ひとりストーリーがあって、楽しんでいらっしゃいます。いろんな方の話を聞いていて面白いですし、飽きないですね」。ランニングイベントの後は、そのまま解散ではなく、食事会をしてコミュニケーションを深められるそうで「知り合いがすごく増えましたね」。ランニングにより、ご縁やつながりも広がっていきました。
青野さんのランニングクリニックも開催!
東京の両国にある「両国きたむら整形外科」の協力もあって「トシ練」というランニングクリニックも開催しています。「僕の練習会は、動き作りをやって、ショートインターバルをやるのがセットです。僕自身も走るので、鍛えられますね(笑)」。今年の横浜マラソンではサブ3の大会公式ペーサーも務められます。「今後はマラソンだけでなくトラックレースにも出場してみたいですね」。最近では走力にも磨きがかかってきています!
競技者として、走ることには本気で打ち込んできました。今は走って、笑顔になる多くのランナーさんを応援するため、恩返しするため、青野敏之さんは今日も現状打破されています!