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特集:あの夏があったから2024~甲子園の記憶

立教大・丸山一喜 春夏連覇めざした大阪桐蔭の4番、口に出し続けた「日本一」の意味

立教大の中心打者になりつつある丸山一喜(撮影・井上翔太)

2021年夏の終わりに新チームが始動してから、公式戦で29連勝。この世代の大阪桐蔭は同年秋の明治神宮大会や翌春の第94回選抜高校野球大会も制し、夏も優勝候補の筆頭に挙げられていた。しかし最後の夏は、甲子園の準々決勝で下関国際(山口)に逆転負け。4番を任されていた立教大学の丸山一喜(2年)に当時を振り返ってもらった。

【特集】あの夏があったから2024~甲子園の記憶

九回の守りについたとき「負けてるんかな」

丸山は取材で「印象に残っている試合」を尋ねられると、すぐに下関国際との一戦を挙げた。「九回の守りに行って、まだプレーが始まっていない投球練習のとき、1点勝ってるのに『なんか負けてるんかな』って……。変な空気がありましたね」。八回を終えて4-3。下関国際は九回、1番の赤瀬健心(現・富士大学2年)から攻撃が始まった。ブラスバンドの演奏とともに、球場全体が手拍子に包まれた。

「僕らのアルプススタンド以外はみんな拍手していて、先頭にヒットを打たれたんですけど、そのときの盛り上がり方がいつもと違って、経験したことのない雰囲気でした」

大阪桐蔭時代は4番打者としてチームを引っ張った(撮影・西岡臣)

下関国際は無死一塁から松本竜之介(現・九州共立大学2年)が左前安打でつなぎ、仲井慎(現・駒澤大学2年)が送りバント。1死二、三塁から賀谷勇斗(現・城西大学2年)が中前適時打を放ち、逆転に成功した。裏の攻撃で大阪桐蔭は三者凡退。春夏連覇への挑戦が終わった。丸山は「自分たちのことをしていれば、絶対に勝てるという自信はあって、練習も『他の高校よりやってきている』ということを全員で言い合っていました。でも終わってみたら、やるべきことができていなかったのかなと」。敗因はまだ見つけられていない。

最後のミーティングで心に刺さった主将の言葉

最後のミーティングでは、背番号1から順番にメンバーの前で話す機会が設けられた。丸山はこのとき「みんな本気で日本一をめざしてきたんやなということが、改めて分かりました」。中でも主将を務めた星子天真(現・青山学院大学2年)の言葉は心に突き刺さったという。

「本当だったら下関に勝って、次の試合のために練習できるはずなのに、急にお前らと野球ができなくなった。甲子園で、日本一をめざして試合をすることもできなくなった。もうそれが当たり前じゃないんだなって、いま思った、ということを言ってて……。『お前らと練習がしたい』ってことも話したんですよ。あれは刺さりましたね」

青山学院大・星子天真 大学で必要な「自律」、きっかけ与えてくれた大阪桐蔭最後の夏

チーム内では、事あるごとに「日本一」という言葉を口にしてきた。日本一のキャッチボールをする、日本一のウォーミングアップをする、日本一のシートノックをする――。エラーが出たら、選手たち自身で「これで日本一になれるのか」と指摘し合った。それぐらいの緊張感を持って、普段から練習していた。春の選抜大会で優勝した後も「夏は簡単に勝てない」と視線を合わせ、夏を戦い抜く体力と個人の技術アップに励んだ。丸山自身は、春季近畿大会決勝で無安打に終わって敗れた智弁和歌山戦の悔しさを胸に、スイングスピードを上げるため、バットを振り込んだ。

最後の夏は、バットを振り込んできた成果を発揮(撮影・白井伸洋)

ここまでの「日本一への執着」は、どこから湧いてくるのか。丸山は言う。「大阪桐蔭に毎年入ってくる20人は、全員が日本一をめざしているので、誰が何を言わずとも『日本一になりたい』って思いが絶対にあるんです。でも、3年生でメンバーに入れない人もいる。そういう人が入部した頃を思い出せるように『俺らは何しにここに来たんや』という意味も込めていました」

「レギュラーになれる保証はないけど……」

丸山は中学まで無名の存在だったと謙遜する。「中学でジャパンに選ばれるような選手ではなくて、大阪桐蔭に入れるようなレベルでもなかったです」。当時所属していたボーイズリーグチームの監督の紹介で大阪桐蔭に進むことになったが、「西谷(浩一)先生も覚えていなかったと思います」。実際に中学3年の冬、後輩を応援するために向かったタイガースカップで西谷監督にあいさつしたところ、顔と名前が一致していない様子だったという。

「レギュラーになれる保証はないけど、絶対にレギュラーになれるところを蹴ってまで行く価値がある。日本一の高校に行けるなら、3年間死ぬ気でやる」と覚悟を固め、全国屈指の強豪の門をたたいた。入ると、先輩たちのレベルが高すぎて、衝撃を受けた。

2学年上はコロナ禍で夏の全国高校野球選手権大会が中止になり、1学年上は春夏ともに甲子園の舞台を踏んだものの、春は1回戦で智弁学園(奈良)に、夏は2回戦で近江(滋賀)に敗れた。「僕らからしたら、1個上の代が最強だった。それでも甲子園に出たら、すぐに負けてしまった。これが俺らの学年になったら……」という危機感が「日本一」をあえて口に出し、勝ち続けても隙を見せない自分たちのスタイルにもつながった。

立教大では1年目から東京六大学リーグで出場機会を得た(撮影・井上翔太)

「マークされても打てるバッター」をめざして

高校時代は野球中心の日々を送ってきた。それはそれで厳しい生活だったが、進学した立教大ではまた違った大変さを感じている。「自分で練習する時間を決めて、確保して、授業も組まないといけない。その中で野球もレベルアップしないといけないのは、最初難しかったです」

たとえば2限と4限に必修科目が入っていたら、日中の練習には出られず「朝6時40分から9時まで」といった早朝の練習に加わる。それだけだと丸山にとって練習時間が短く、どこかの隙間時間を見つけてバットを振ったり、ウェートトレーニングに励んだりしている。この環境の変化に慣れるまで多少の時間を要す一方、学年が上がって必修科目が減ると、出られる練習も多くなった。

今春の東京六大学リーグ戦では開幕から4番を任されたものの、5月にあった慶應義塾大学との3回戦から打順を落とし、打率は2割5分。1週間で少なくとも2試合が組まれ、1カ月半続くリーグ戦特有の「調整の難しさ」を味わった。「ふがいなかったですね。思い通りにいかないことが多すぎました」と丸山。自分の弱いところをさらけ出したことで、秋もその球を生かすための配球が組まれるだろう。それを乗り越え「マークされても打てるバッター」をめざして、日々奮闘している。

明治大学の昨年の主将・上田希由翔のような打者をめざす(撮影・井上翔太)

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