川内優輝選手の同級生は元全国チャンピオン! 髙橋和也さんが「友誠館」に込めた思い
今回の「M高史の陸上まるかじり」は、髙橋和也さんのお話です。埼玉県の加須平成中学時代に全日本中学陸上1500mで優勝。春日部東高校時代はインターハイ1500m2位(日本人トップ)。早稲田大学では第82回大会箱根駅伝で6区に出場しました。高校時代の同級生には、プロランナーとして活躍し続ける川内優輝選手(あいおいニッセイ同和損保)がいます。現在は埼玉県久喜市の友誠館(ゆうせいかん)陸上クラブで指導に携わられている髙橋さんにお話を伺いました。
小学校からマラソンの全国大会で日本一に
「幼稚園の頃は短距離が遅くて、運動会のかけっこはビリでした。小学校に入って1年生の時は持久走大会で3番になりました。父はマラソンが好きで、よく父の応援に行っていましたね」という髙橋さん。
転機となったのは小学2年生の時に出場したエスビーちびっこマラソンでした。「父がスーパーマーケットのチラシを見つけてきまして、出場してみたところたまたま優勝できたんです。『これはいけるぞ』と父に火がついた感じでした(笑)」
野球、水泳、テニス、書道、ピアノ、学習塾と習い事が多かった小学生時代。6年生の時には、当時開催されていたエスビーちびっこマラソンの全国大会に出場し、3kmを9分54秒で走って優勝。小学校ですでに日本一の座をつかみました。この大会には、のちに早稲田大学で一緒になる竹澤健介さんも出場されていたそうです。
「優勝して瀬古(利彦)さんからトロフィーをいただきましたし、現役のエスビー食品の選手の皆さんにお会いできたのも、ご縁ですよね」
髙橋さんの入学がきっかけで中学の陸上部創設
加須平成中学では、髙橋さんの入学と同時に陸上部が創設されました。きっかけは、髙橋さんが小学校で全国チャンピオンになったことだそうです。ただ、できたばかりで、練習があまり本格的ではなく「部活と塾が終わってから、父と自主練習していました」。それでもグングンと記録を伸ばしていきました。
余談ですが、私、M高史が髙橋さんに注目し始めたのは、髙橋さんが中学2年生の頃でした。当時、僕は高校1年生で、後輩の蘆塚泰さんと一緒にランネットでエントリーして、中学や高校の正式なレース以外にもよく出場していました。蘆塚さんは中学で全中やジュニアオリンピック、都道府県駅伝にも出場するなど、実力のある選手でした。東京都内で開催された1500mのローカルレースに出場したところ、蘆塚さんがぶっちぎりで勝つかなと思ったら、とてつもないスピードで蘆塚さんを置き去りにする選手がいたのです。それが髙橋さんでした。今でもその衝撃を強く覚えています!
その年の都道府県駅伝では6区で当時の区間記録を樹立し、区間賞も獲得。以後、都道府県駅伝は高校3年生まで、5年連続で出場されました。
中学3年生になると、髙橋さんは全中の1500mで優勝を飾り、小学校に続いて日本一に輝きました。埼玉県通信陸上でマークした中学時代の自己ベスト、1500m4分01秒43は、今年更新されるまで23年もの間、大会記録として残っていたそうです。ちなみに、前述した蘆塚さんも髙橋さんも早稲田大学で同じ学年。ここでも何かご縁を感じます。
春日部東高校で川内優輝選手と同級生に
高校進学にあたり、全国の強豪校から声がかかった髙橋さんが選んだのは埼玉県の春日部東高校でした。髙橋さんのお姉さんが春日部東高校のソフトボール部で、ソフトボール部の副顧問が、陸上部の顧問もされていたそうです。ある日、顧問の先生とお姉さんの間で、このような会話がなされました。
姉「弟が陸上をやっているんですよ」
顧問「どれくらいで走るの?」
姉「1500mで4分くらいです」
顧問「!?すぐに連れてきなさい!」
顧問の先生もびっくりするほど速かった髙橋さん。お姉さんのご縁もあり、中学時代から月に1度ほどのペースで春日部東高校の練習にも通っていたそうです。
「当時、二つ上に森田圭祐先輩(のちに駒澤大学でM高史と同級生)がいて、この先輩たちがいるところで陸上ができたら楽しいだろうなと思いました」
そして高校の同級生には、あの川内優輝選手が! 全中に出場した選手も入学し「このメンバーが3年生になったら埼玉栄と勝負できるのでは」という希望に満ちあふれ、高校生活がスタートしました。
高校1年生ですでに1500mは3分53秒。2年生では当時の高2歴代2位の記録となる3分47秒88をインターハイでマーク。2年生でインターハイ6位となりました。
3年生になると高校生の枠を飛び越えて日本選手権に出場し、1500mでは3分46秒83をマークして6位入賞。インターハイでは1500mで2位(日本人トップ)に。予選が終わった後に体調不良となり、点滴を受け、翌日には奇跡的な回復を果たし、激走しました。
日本ジュニア選手権では1500mで優勝を飾り、高校でも日本一の称号を手にしました。トラックや個人種目では全国区の活躍を見せた髙橋さんでしたが、駅伝では3年間、埼玉栄高校を上回ることができず、全国高校駅伝の舞台には届きませんでした。
「川内(優輝)君が長距離ブロック長で、私が副ブロック長でした。先輩や顧問の推薦もあったのですが、川内君はケガが多くて苦労していました。いま思えば、ブロック長をやりながら、みんなを束ねなければいけないということに、過度に責任を感じていたのかもしれません。私は副ブロック長でしたので『現場は自分が守るから、まずはケガを治して、落ち込んだ顔を見せるな』と川内君に伝えてましたね」
高校2年の関東高校駅伝で7位に入るなど、翌年に期待がかかる結果も残せましたが、3年生の夏は大学受験の関係で早めに部活を引退する選手もいて、駅伝は不完全燃焼に終わりました。
大会前日にカレーを食べるルーティン
余談ですが、川内優輝選手は「大会前日にカレーを食べる」というルーティンがよく知られています。実はこれ、髙橋さんが由来なのだそうです。
「私は試合の時に、付き添いのメンバーを毎回変えていたのですが、とある試合の付き添いが川内君でした。当時、監督から前日に何を食べたいか聞かれたので『カレーです』と答えました。中学1年の頃から、良い記録が出た時の勝負めしがカレーだったんです。それまで焼き肉、すし、ラーメン、うどんなどといろいろ試した中でのカレーでした。カレーは刺激物なので本来リスクがあるのですが(笑)。『試合の前日はカレーって決めてるんだ』と言うと、川内君は真顔で『そうなんだ』と聞いていましたね」
髙橋さんと川内さんの母親同士も仲が良かったそうで、すぐに話が伝わったそうです。
「強い人はカレーを食べると本番も良い走りができる」ということなのか。川内選手は以後、レースの前日にカレーを食べることになったそうです。
4度の世界選手権日本代表やボストンマラソン優勝など、数多くの海外遠征を経験しているだけでなく、雨の中で大逃げを図った昨年のMGCなど、熱いレースを繰り広げている川内優輝選手。現状打破し続けているスタミナを支えている前日のカレーは、同級生である髙橋さんのルーティンがルーツでした。
「私の子どももいま、陸上をやっておりまして、髙橋家ではレース前日はカレーライスかカレーうどんです(笑)」。やはり、カレーには不思議な力があるのでしょうか!
早稲田大学では1年目に箱根駅伝6区出走
カレーの話から陸上の話に戻りまして……。春日部東高校卒業後は早稲田大学に進みました。小、中、高校と全国のトップを争ってきた髙橋さんでしたが、大学では結果がかみ合わないことが続きました。
大学1年の箱根駅伝は補欠の予定でしたが、急きょ、山下りの6区を走ることに。前日に出走が決まって箱根の急坂に挑むことになった髙橋さんは、区間16位でした。結果的には、これが最初で最後の箱根路となりました。
「2年生の時は腸脛靱帯(ちょうけいじんたい)を痛めて出場できず、3年生の時は4区の候補でしたが、年間を通して安定した実績が残せなかったということで外れました。そこで『安定感って大事』と思い、4年目は安定して走れるように意識しました」
4年生になる前の日本学生ハーフで、初めてのハーフマラソンながら1時間03分台の好タイムで走りました。ただ、髙橋さんにとっては衝撃の出来事がありました。「初めてレースで川内君に負けたんですよ。63分台で悪くないタイムだったのですが、川内君に10秒ほど負けまして。うれしさよりも、ものすごい悔しさを感じました」
高校時代は5000mのベストで1分ほどの差があった髙橋さんと川内選手ですが、当時学習院大学に在籍していた川内選手は関東学連選抜(現・関東学生連合)で箱根駅伝でも好走するなど、大学でコツコツと力をつけてこられたのでした。
スピードランナーの髙橋さんにとって、得意のトラックシーズンは1500mで関東インカレ8位、日本インカレ4位とともに入賞。東京六大学対校戦では、優勝も飾りました。夏合宿もきっちりと練習を積み重ね、安定感のあるところを見せてきましたが、箱根駅伝に向けた大事なレースとなる11月の上尾シティハーフマラソンではケガの影響で1時間07分台と失速。続く、早稲田記録会には痛みをこらえて出場し、10000mで31分以上かかった結果、メンバー入りを逃すことになりました。のちに疲労骨折が判明したそうです。
「初めて16人のメンバーに入れなかった大学4年目の箱根駅伝でした。16人に入れないと、その練習にも参加できないんですよ。小学校、中学校、高校と、今思えば輝かしい成績を残してきました。でも、それって周りの支えがあったからですし、選手になりたくてもなれなかった人たちが、みんなのためにサポートしてくれたからなんです。そういったことに気付けた4年目でした」
4年目の箱根では3区を走った同級生の竹澤健介さんへ、沿道から応援とタイム差を伝える役目でした。「身を乗り出して、ボードを見せて何秒差というのを大きな声で伝えましたよ。レース後に竹澤君から『一番よく聞こえたよ』と言われたのが胸アツでした。走れない悔しさもありましたが、箱根駅伝を迎える時にはそういう気持ちも晴れて、むしろ大学に貢献しようという気持ちでした」。大手町のフィニッシュ地点で、髙橋さんは笑顔でアンカーの選手を迎え入れました。
「意識の高い仲間が集まって練習する場所」
大学卒業後は競技から離れ、旅行会社に就職しました。その後は警備会社に転職し、市民ランナーとして再び走り出しました。そんな折、高校の同級生で当時は公務員をしながら世界選手権の代表になるなど、一気に飛躍を遂げた川内選手からお誘いがあったそうです。
「川内君から『一緒にチームを作って走ろう』と誘われたこともあったのですが、断ってしまったんですよ。そんなにガッツリ走るのではなくて、のんびり走ろうかと。川内君はわかりやすく、シュンっとなってましたね(笑)。いま思うともったいなかったですが……。もし、その時に誘いを受けていたら、また違った人生になっていたかもしれませんね」
その後、髙橋さんは競技ではなく指導の道に進むことになります。働きながら教員免許を取得し、特別支援学校の教員に。現在も続けています。また、2016年からは埼玉県久喜市を拠点に活動する友誠館陸上クラブで指導者として携わり、今年で9年目となります。
「練習日には小学校の体育館や校庭をありがたく使わせていただいています。短距離、長距離、フィールドなど種目ごとのコーチもいて、5人の指導者体制で活動しています」と髙橋さんは周りの方への感謝もお話しされました。
チーム名の「友誠館」にも思いが込められています。
「友」:友達、仲間
「誠」:誠実、真面目、一生懸命、意識が高い
「館」:場所
「意識の高い仲間が集まって練習する場所」という意味です。あいさつや礼儀といった大切なことはしっかりと。加えてメリハリを大事にされています。
「それぞれ目標を持つことを大事にしたいです。あいさつや片付けなどを率先し、自立をテーマに自分で考えて行動する『考動力』を身につけてほしいですね。親御さんにやってもらって当たり前ではなく、練習道具、水筒、タオル、シューズの準備なども、自分でやってもらうようにしています」
取材日に友誠館陸上クラブの練習に参加させていただいたのですが、練習の前後や休憩時間は明るく元気いっぱい。ところが、いざ練習になると、スイッチが入って真剣に。とてもメリハリがあります。今年のクラブ対抗駅伝大会(小学校No.1を決める大会)で準優勝を飾るなど、基礎体力作りの成果も出てきています。
競技者として栄光も挫折も経験してきた髙橋和也さんですが、今は子どもたちに未来を託し、指導者として現状打破しています!