陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2025

筑波大・宗澤ティファニーと八重樫澄佳(上)走り高跳び、ワンツーフィニッシュの背景

昨年5月の関東インカレ女子1部走り高跳びでワンツーフィニッシュを飾った筑波大の宗澤ティファニー(前列左)と八重樫澄佳(前列右、すべて撮影・井上翔太)

2024年5月の第103回関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)初日、女子1部走り高跳びが行われていたゾーンは、ひときわ盛り上がっていた。筑波大学の宗澤ティファニー(4年、滝川第二)と八重樫澄佳(4年、黒沢尻北)が、ともに3度目で1m73を成功させ、ワンツーフィニッシュ(試技差あり)。応援席には涙を流す後輩の姿もあった。あの光景が忘れられず、卒業を間近に控えた今年2月、2人を訪ねた。

緊張から、どんどん増した楽しさ

――当時の感情について、いま思い出せますか?

宗澤ティファニー(以下、宗澤):1m70まではずっと1回で跳べていたので「調子いいわ~」と思ってました。でも1m73で最初の2回を失敗して、残っていた選手も全員失敗だったんです。1回落ち着いて、3回目に跳べたのが2人だけだったから「もう最高!」みたいな気分でした。そのときは、まだ自分の順位が分かっていなかったです。1m76の自己ベストアタックが駄目で、でも「あ、1位!うれしい!」と。4年間一緒に頑張ってきた子と戦えた状況が、どこか筑波大学陸上競技会の雰囲気に似ていて。最初は緊張していたんですけど、楽しさがどんどん大きくなりました。

八重樫澄佳(以下、八重樫):最後にまさかこんな展開が待っているとは、と思いました。大会自体の雰囲気は関東インカレ独特のものだったんですけど、ホーム感が強くなって、楽しかったですね。でも緊張はしたし、負けず嫌いなので……。結果が決まった後は、負けたし悔しいけど、それより最後は2人で一緒に跳べて、チームを盛り上げることができて、いい大会になりました。

――応援席で泣いている後輩もいました。

八重樫:3年生のときまでは彼女と一緒に3人で出ることも多かったんですけど、大きなけがをしちゃって。でも、誰よりもそばで私たちのことを見ていて、切磋琢磨(せっさたくま)してきた頼もしい後輩です。

関東インカレに始まり、2人の出会いから筑波で学んだことまで、幅広く語った

高校1年時のインターハイで打ち解け、ともに筑波大へ

――お二人はいつごろから、お互いのことを認識しているのですか?

宗澤:どっちも小学生から陸上で高跳びをしていて、日清食品カップが初めてだったかな。認識したのは中学生?

八重樫:中学3年生だね。私は全中(全日本中学校陸上競技選手権大会)に出たのが中3だから。私は中3での記録が1m69でした。

宗澤:私も69、一緒だ!

――中学時代、お互いの印象はありますか?

八重樫:(宗澤は)世界観というか、自分の軸をちゃんと持っていました。中3ですでに宗澤ティファニーワールドが展開されてて(笑)。本番とか全国大会で強い人って、こういう感じなんだと思いつつ、絶対にこの人は面白いなと。マイペースなんです、それが強いんです。

宗澤:私は中3の春に1m69を跳んで、それがうれしかったんです。でも、その時の顧問の先生から「北の方でも69を跳んだ人おんで」みたいに言われて、「えー!すご!」みたいな。実際に全中で「あ、この人なんだ!」と。ただ、集中しないといけないし、自分の中ではほぼ初対面だったから、しゃべりかけられませんでした。真顔で集中していて「あ、こういう人が跳べるのか」と思いました(笑)。

自身の跳躍前に集中した表情の八重樫

――宗澤さんは他の選手に話しかけにいくタイプなんですね。

宗澤:中学、高校ぐらいまでは、そんな感じでした。招集所でたまたま隣になった人たちとしゃべってましたね。みんな緊張してるから気が合うんです。話しかけると、相手も「あ、ですよね」とだんだんほぐれてくる。でも一番(八重樫が)しゃべりにくかったです(笑)。

――どのあたりから、実際に話すようになったんですか?

宗澤:ちゃんとしゃべれたのは、高校1年だと思います。三重県で開かれたインターハイですごく調子が良くて、すーちゃんもテンションが高くて、いつもより視野広めでしゃべってくれる感じだったんですけど、どっちもNM(記録なし)。緊張感が薄れちゃったのが、悪い方向に出てしまいました。その時「筑波大学に行きたい」って言ってなかった?

八重樫:覚えてない……。

宗澤:私はそのとき筑波を目指そうかなと思っていて、「どこ行きたいの?」って聞いたら「筑波」って言うから「えー、一緒やん」とそのとき思ったんです。

――八重樫さんは筑波をちゃんと意識し始めたのは、いつごろですか?

八重樫:たぶん高1か高2です。両親が福島大学だったので福島大学と、山形大学も考えていたんですけど、寒いのと雪が嫌いで。高校3年のときの日本インカレで女子は筑波が総合優勝したんです。高2ぐらいから意識していて、そこが決定的になりましたね。

――宗澤さんは、なぜ早い時期に筑波を志望したのですか?

宗澤:高校時代に「行きたい大学を考えてみましょう」みたいな授業があって、大学でも陸上は続けようと決めていたので、陸上が強いところを調べていました。ここ3年間のインカレとか全国の試合で、跳躍種目の入賞者を調べて、平均値みたいなものを出したんです。筑波大学は3位以内には入っていて、当時は浅井さくらさんが日本インカレ優勝。練習の環境も整っているのかなと思って、調べたらスポーツに特化している体育専門学群もあって。教職にも力を入れていることを知って「ここしかないやん」と思いました。

八重樫:それでいくと、私も高2のときに「何か自分の好きな分野について論文っぽいものを書こう」という授業があって、高跳びについてやろうと思ったんです。色々な論文をあさっていたとき、杉浦澄美さんという現在は筑波の特任助教であり、もともと競技部員でもあった方の論文も見ていました。体育という広い分野で陸上競技についての研究もできるという考えになって……そしたら高2で確実に筑波を意識していますね。

宗澤は高校時代から大学の跳躍事情を調べ上げ、早い段階から筑波に進むことを決めた

"ターニングポイント"になったコロナ禍

――高校3年のときはコロナ禍でインターハイが中止になり、10月に全国高校陸上競技大会が開かれました。

八重樫:そこが私のターニングポイントだったと思います。コロナの流行で岩手県高校総体の中止が発表されて、仲間たちは受験に向けて早々に部活動を引退していきました。私は推薦入試と代替大会を控えていたので、勉強もやりながら部活動もしていました。同級生たちが受験勉強で忙しい時期なのに壮行会も開いてくれて、「よっしゃ行ってこい!」と送り出してもらったのに、結果はまさかのNMだったんです。みんなと顔を合わせられないなと思って……。このときは、陸上に自分の存在価値を置いていたんです。「結果を出さなければ、いる意味がない」とまで考えちゃって。試合後は競技場の誰も通らないようなところで、ずっと泣いてました。

――どう立ち直ったんですか?

八重樫:「どっかいなくなっちゃおうかな」ぐらいまで落ち込んだんですけど、先輩から「大事なのは結果じゃなくて、頑張っている姿だから大丈夫だよ」という内容のメッセージをいただいて。こんなに浅い言葉じゃないんですけど(笑)。結果以上に、自分という人間を応援してくれている人がいることを教えてくださって、そこから「陸上は人生の一部」のような、簡単に言えばそんなに重く考えなくていいんだと思えるようになりました。

八重樫はコロナ禍の影響を受けた高校3年が、自身のターニングポイントだったと振り返る
【後編】筑波大・宗澤ティファニーと八重樫澄佳(下)「一人一躍」のチームだから、学べた自立

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