早大・安恒直人 一般受験からアカクロ、そしてリーグワンへ「自分を褒めたい4年間」
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惜しくも帝京大学に敗れて大学選手権準優勝に終わった早稲田大学ラグビー部。キャプテンHO佐藤健次(4年、桐蔭学園)、FB矢崎由高(2年、桐蔭学園)ら日本代表に選ばれたスター選手がいる中で、公立高校から一般受験で合格しラグビー部の門をたたき、2度のポジション変更を経て、佐藤とともに中軸の一人としてチームを支え続けた選手がいる。今季、寮長も務めたHO安恒直人(4年、福岡)だ。
公立高校から、大学選手権決勝の舞台へ
HOとして2番や16番を背負い、まれにFL、シーズン最後には左PRでもプレーした安恒。「HOに転向したときは、社会人でラグビーを続けると思っていなかった」というハードタックラーは、リーグワンディビジョン1の三菱重工相模原ダイナボアーズでラグビーを続ける。
15-33で負けた大学選手権の決勝・帝京大学戦について、「ファーストスクラムはヒットで早稲田大が前に出ていたのですが……。逆の判定だったら流れは変わっていたと思うし、この1年やってきたスクラムで反則を取られて悔しかった。また、僕とまぁ(SH宮尾昌典、4年、京都成章)が後半、早い時間から入れてもらったのですが、流れを変えることができなかった」と悔しい表情を見せた。
中学、高校時代、決して全国区の選手ではなかった安恒は、日本一に立つことこそできなかったが、早稲田大ラグビー部での4年間を振り返り、「悔しい思いもめっちゃくちゃしましたが、それ以上に、国立競技場や満員の秩父宮ラグビー場でプレーができて、本当楽しかったです!」と満面の笑みを見せた。
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花園には手が届かず 高3の11月から勉強し現役合格
安恒は福岡市の隣、粕屋郡須恵町出身。東福岡高でもプレーした兄とともに、5歳から、ぎんなんリトルラガーズで競技を始めた。ラグビー経験のある親族はいなかったが、父親がSO松下彰吾、SO真七郎(ともに筑波大学→九州電力)ら4兄弟の父親と知り合いだった影響も大きかったという。筑波大のキャプテンを務めたWTB中野真太郎(4年、福岡)は、小中高と一緒に楕円(だえん)球を追った幼なじみだ。
小学校まではFWだったが、中学からBKへ転向し、主にSOやCTBとしてプレーした。福岡高では経験者があまり多くなかったこともあり、「少し器用な方だった」という安恒がSO、中野がSHでハーフ団を組んだ。全国高校ラグビー大会を目指したが、3年間、「花園」には手が届かなかった。特に高校3年時は記念大会で福岡から2校出場できるチャンスだったが、福岡県第2地区の準決勝で筑紫と対戦し、前半を15-0で折り返したものの、後半に追いつかれて15-17で逆転負けして涙をのんだ。
大学進学では、「日本一になりたい」「先輩があまりいない大学に行って環境を変えたい」と早稲田大に憧れを持っていたため第1志望とした。高3の11月まで部活に専念しており受験は準備不足だったが、理系だった安恒は、センター試験の数学と英語、そして小論文の3科目だったスポーツ科学部ほぼ1本に絞って勉強を重ね、見事に現役で合格した。
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HO転向の転機 ライバル・佐藤健次と切磋琢磨
晴れて早稲田大に入学した安恒は、希望ポジションをCTBとして提出した。ところが入部して1カ月、いきなり転機がやってくる。筑紫高出身の権丈太郎コーチ(当時)から「福高出身のお前はタックルだ!」と、FLへの転向を勧められたのだ。安恒は「小さい頃からFW、BKのいろいろなポジションをやってきたので、あまりBKにこだわりがなかったのでチャレンジしてみようと思いました」と、転向を受け入れた。
現在は100kg近い体重となった安恒だが、早稲田大ラグビー部に入部当時は身長172cm、体重76kg。FWに転向したためウェートトレーニングでフィジカル強化に努めたが、1年時はCチームに上がるのが精いっぱい。ジュニア選手権に出場することもかなわなかった。
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大学2年になる直前、2度目の転機がやってきた。大田尾竜彦監督らコーチ陣から、HOへの転向を提案された。「中学時代はBKでしたが、コーチに『(日本代表の)堀江翔太みたいなHOになれ』と言われていたので、そんなに嫌なイメージはありませんでした。中学時代、最後の大会だけFWでプレーし、ラインアウトのスローイングもやっていましたし、身長的にもHOなら戦えると思いました」と再転向には前向きだったが、一つ、大きな懸念があった。
「僕がHOに転向するときに唯一迷ったのは、(佐藤)健次が同時にHOに転向したことでした」
同じタイミングで、同世代のトッププレーヤーであり、前年度は1年生ながらNO8で大活躍していた佐藤も、HOにチャレンジすることを表明していたのだ。「スタメンで出たいという気持ちがあり、すごく迷いました」と安恒。だが、「コーチ陣に求められるならHOの方がチャンスはあるのかな」と考え、転向の提案を受け入れた。
同期で、しかもスポーツ科学部で教職課程を取っていたのは安恒と佐藤だけだったこともあり、授業もいっしょで、常に佐藤とともに練習を重ねた。「スクラムは、最初は難しかったですがコーチの言うことを全部聞きましたし、テクニックやコツは難しかったですが、常に(練習の)対戦相手がめちゃくちゃ強い健次だったので1対1の強さには慣れました。ラインアウトのスローイングは個人の問題なので、健次といっしょに練習しましたね」
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徐々に頭角を現し先発の機会も リーグワンから声
そんな安恒が、控えからながらも初めてB戦に出場できたのは、2年生の6月の日本大学戦だった。この試合でのパフォーマンスが評価されてA・Bチームの練習に参加できるようになり、秋には、「目標の一つだった」というラグビー部の寮に移ることができた。そして9月の関東対抗戦、佐藤が2番を背負って先発する中、安恒は控えの16番として初めてアカクロジャージーに袖を通した。
「プレータイムは数分しかなかったですが、最初はすごく緊張しました。それでもこの試合のことは鮮明に覚えています。ここまで順調にいくとは思っていなかったので本当にうれしかった! プレータイムも伸びましたし、3年の時はフランカーで試合に出ることもありましたが、HOに転向して良かった。本当に人生、めちゃくちゃ変わりましたね。もしHOに転向していなかったら、社会人でラグビーは続けてなかった」
佐藤と切磋琢磨(せっさたくま)しながら、安恒は徐々にチーム内での存在感を増していった。
2年生となり対抗戦や大学選手権で試合に出るようになると、リーグワンの数チームから誘われるようになったという。ラグビーを続けるか、それとも一般就職するかしばらく悩んだ末に、大学3年の夏ごろ、ラグビーを続けようと決心。「環境も良かったし、上(ディビジョン1)のレベルでやりたい」とダイナボアーズへの入団を決めた。
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そして、4年間で最も覚えている試合として挙げたのが、2年時の大学選手権3回戦の東洋大学戦だった。安恒は初めて2番を背負って先発した。「個人的に初の全国大会で、相手が勢いに乗っている東洋大で、早稲田大としては負けるわけにはいかないというプレッシャーがすごくありました。それでも(34-19で勝利して)結構、いけたので自信になりました! 次の明治大学戦も先発で40分出場でき、そこでは全然緊張せずにプレーできましたね。今から見たら2年生の僕はまだまだだと思いますが、当時は頑張っていたと思います」
他の印象深かった試合として、関東対抗戦で初めて2番を背負いPOM(プレーヤー・オブ・ザ・マッチ)にも輝いた3年時の青山学院大学戦、仲が良かった一つ上の代との最後の試合となった3年時の大学選手権準々決勝・京都産業大学戦、そして福岡高の同級生である中野、出光徹(3年)と3人そろって先発した4年の対抗戦・筑波大戦を挙げた。
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健次がいたからこそ、強みを磨いて、強くなれた
4年時は2番で出場した公式戦は2試合だったが、常に佐藤と同じポジションを争い、しのぎを削った4年間だった。
「佐藤健次の存在は?」と聞くと、「健次がいなかったらここまで来ることができていなかった。健次がいたからこそ、コーチ陣に『自分の強みを磨け!』と言われていたので、派手なプレーはできない分、接点やスクラムにこだわり続けた。健次は努力の量・レベルが他の選手と違うので、でかい壁でありましたが負けずに頑張れたし、その分、僕も強くなれた。自分のスタンダードを上げられました。近い目標として、お互いに2番で出て、リーグワンで健次と直接対決してみたい」と感謝した。
胸を借りつつ、佐藤にチャレンジし続けた4年間。安恒は「充実した、早稲田でしかできない経験をさせてもらった。早稲田はスター集団、たとえば健次、(矢崎)由高みたいなすごい奴がいる中で、僕とか(栗田)文介(3年、千種)みたいな公立高校出身の花園に出てない選手でも試合に出られるのが特徴だし良さだと思う。そういった選手に自分がなれたことを、自分で褒めたい4年間でした」としみじみと語った。
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後輩へのメッセージをお願いすると、「今季、決勝の舞台を経験できたのも一つの財産だと思います。また、努力は本当にうそをつかない。自分を信じて努力し続けてほしいし、努力したらもう一つ上を目指せると思うので、頑張ってほしい!」とエールを送った。
「殺身為仁」を信条に、2度のポジション変更にも動じず、アカクロジャージーをまとって大きな進化を遂げた安恒。春からはダイナボアーズの緑のジャージーの2番を目指し、大学時代同様、一歩一歩、たゆまない努力を続けていく。
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