吹雪の中、絶叫だけが響いた 元早稲田大応援部・前澤智4
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元早稲田大学応援部主務の前澤智さん(48)の青春、シリーズ4回目です。
応援部生活で“最極寒”の体験
大きな山場である1年生の夏合宿は乗り越えた。私たちリーダー新人は9月以降、野球を始めとした秋の各種スポーツの応援で経験を積んだ。12月には4年生の引退と同時に、新人は正式な部員に昇格した。
後輩が入学する翌春までは、2年生と新人の両方の役割をこなさなければならない。校旗を揚げる練習が始まったり、早大の入試の手伝いをしたりと、忙しい日々。そんな中、自分の応援部生活で最も寒かった応援があった。
1991年1月中旬、私は長野県白馬村で開かれたスキーの全日本学生選手権に、先輩、同期とともに向かった。参加したのはリーダー部員だけ。チアリーダー、吹奏楽団は不在。声だけの地味な応援だった。まず初日、アルペンの会場に向かった。学生服の下にセーターやトレーナーを着こみ、普段の革靴は長靴に履き替えた。応援が始まるまでは上着を着てもよかった。
応援場所はゴール付近だった。数人のリーダー部員による声だけの応援。一人が校旗を揚げ、残りの部員が声援を送った。スタート地点は、少なくとも標高で数百mは高い地点にあり、選手の姿も見えない。放送で早大の選手がスタート前であることを確認し、「頑張れ○○」と叫ぶ。しばらくすると斜面を滑ってくる選手の姿が徐々に大きくなり、ゴール。ゴール後の選手の前で、私たちは「いいぞ、頑張れ○○」などと絶叫した。普段の活動に比べれば厳しい環境ではあったが、晴れだったこともあり、「この程度ならちょろいもんだ」と思っていた。
ところが、初日の応援を終えて宿舎に戻った後、先輩から「明日からはスタート地点で応援することになった」と聞かされた。スキー部から「応援が聞こえないから、気合が入らない。スタート地点でやってほしい」という要望が出たとのことだった。たしかに指摘はもっともだった。
学生服でゴンドラに
応援2日目。学生服に長靴の格好で旗などの機材を持ち、ゴンドラでスタート地点へ向かった。前日のゴール地点と比べると、かなり寒い。しかも時々、吹雪となり、競技はそのたびに中断。気温は氷点下に感じられた。前日のゴール付近では見かけた他大学の応援部や応援団も、ここにはいなかった。
スキー部が使っていた「かまくら」で私たちも出番を待った。早大の選手の競技開始が近づくと、風雪の中、スタート近くへ移動。手袋をしていても、手がかじかんだ。顔は痛かった。早大の選手を紹介する放送が流れる。先輩が旗を揚げ、我々1年生部員は、「頑張れ○○」を繰り返す。直後に選手が滑降し、一気に見えなくなった。
一緒に応援してくれる学生もいない。吹雪の静けさの中で、自分たちの絶叫する声だけが響き渡る。異様な空間だった。競技の結果はまったく覚えていない。応援を終えてスキー部と同じ宿舎に戻り、体を温めた。
当時の早大スキー部には、後にノルディック複合団体でオリンピック金メダリストとなった荻原健司さん、双子の弟の次晴さんが3年生部員として在籍していた。私が応援で参加した期間、健司さんは海外遠征で不在だったそうだが、次晴さんが宿舎でねぎらいの言葉をかけてくれた。寒すぎる応援の思い出の中で、唯一の心温まる瞬間だった。