応援

連載:私の4years.

応援部、間違いじゃなかった? 前澤智 2

陸上トレーニングで体力と精神力を鍛えた

全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に当時を振り返っていただく「私の4years.」。

元早稲田大学応援部主務の前澤智さん(48)の青春、シリーズ2回目です。

「聞いてないよぉ」予想を超える過酷な現実

ためらいながらも勇気を振り絞って応援部に入った。部室に置きっぱなしになっていた卒業生の学ランを与えられ、袖を通した。見た目だけは応援部のリーダー部員風にはなった。

覚悟していたつもりだったが、予想を超える過酷な現実が次々と訪れた。まずは応援部行きつけの床屋に連れて行かれ、角刈りに。2年生までは角刈りと決まっていた。「聞いてないよぉ」と心の中で思ったが、先輩に文句など言う気にさえならなかった。応援で使う道具や立て看板の作成など、地味な仕事に追われる日々。入部間もない新人は見習いの立場であり、2年生にしか話しかけてはいけない。従って3、4年生は雲の上の存在だった。(注:現在の早大応援部では、いわゆる封建的なきまりは廃止されている)

リーダー部員の練習や本番の応援は、大きな声と体力を求められる。日々の練習は約2時間。時間は短くても、キツかった。下級生の練習には主に3種類あった。神宮球場での野球応援を学内の広場などで再現する「球場内練習」。式典などで応援歌や校歌の指揮をとる4年生の後ろに一列に並び、拍手したり腕を回したりしながら大声で歌って場を盛り上げるのを覚える「屛風(びょうぶ)練習」。急な階段や坂道を使って体力と精神力を鍛える「陸上トレーニング」。こうして思い出すだけで、ゾッとする。

とくにキツかったのが、陸上トレーニングでの「片足」。主将と、練習を管理する4年生の2人の背中を追い、下級生全体でかけ声をあげながら走って、大学周辺の公共の階段へ。長さ約65mの急な階段を、2年生と新人が2人1組となり、おんぶやダッシュで駆け上がる。「片足」は、いわゆる「けんけん」で最上段まで上がっていくのだが、使わない方の足は、手で抱えないといけない。持っている足が地面についてしまったり、転んだりすると、スタート地点からやり直し。この間ずっと、かけ声は止めてはいけない。私はこの「片足」が大の苦手で、毎回、先輩や同級生の励ましに後押しされながら、何とかゴールする状態だった。 

片足を手でつかんで、けんけんで階段を駆け上がる筆者。練習の中で最もつらい種目だった

辞めたい。弱気になる日々

実際の球場での応援はといえば、これも想像以上に大変だった。学生の前に立ち、「勝つぞ早稲田」「頑張れ○○」といった声援を、より大きな声で言ってもらえるよう先輩から指導を受けた。応援部員は自分だけが声を出すのではなく、学生をリードして盛り上げる役割なのだという考えが根底にあった。状況に応じた「トーク」の能力が必須だったが、私は気の利いた「ギャグ」も繰り出せず、担当した場所を盛り上げることはなかなかできなかった。

高校時代にあこがれたリーダー部員とはほど遠い自分の現状に、辞めたいと弱気になることも度々。そんな苦しい新人時代の春はあっという間にすぎた。気がつけば、1990年春の東京六大学野球リーグ戦は最終週(6月初旬)の早慶戦を迎えていた。12年ぶりに優勝決定戦となったカードは当時、社会的な関心を呼び、テレビや新聞でも大々的に取り上げられた。

1勝1敗で迎えた3回戦。4年生に水口栄二選手(のちに近鉄バファローズ)らがいた早大は終盤に逆転し、最後は、1年生の大越基投手(のちに福岡ダイエーホークス)が慶大の反撃を断ち、15シーズンぶりのリーグ優勝を果たした。超満員だった球場の早大側応援席では紙吹雪が舞った。優勝決定直後、応援席で校旗を高々と掲げた4年生の後ろに立つ「校旗付き」をしていた私は、のどがカラカラで、ただただ早く水が飲みたかった。

涙を流す4年生や、興奮する学生たちと同じように喜ぶことはまだできなかったが、熱狂するスタンドを見て、応援部に入った選択は間違いではなかったようだと、初めて思えた瞬間だった。

1990年6月4日、東京六大学野球の早慶戦で早大が6―3で慶大を破り、15シーズンぶり、30回目の優勝を果たした

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