ラグビー

連載:伝説の名勝負

1990年冬、ラグビー早明戦2度の死闘(中) 明治・吉田「キヨシー!」叫んで独走

明治の吉田、執念のトライ

大学スポーツには、いまも語り継がれる名勝負がたくさんあります。4years.ではその主役たちに取材し、当時の思いや、いまだから言えることを語っていただきます。そしてできるだけ立体的に名勝負を再構成し、随時連載でお届けします。

第1回は1990年から91年にかけての冬、2度の死闘を演じたラグビー早明戦。3回の連載の2回目です。

全国大学選手権 決勝

1991年1月6日@東京・国立競技場
明治大16-13早稲田大
明大は2年ぶり8度目の優勝

1990年12月2日、関東大学対抗戦の伝統の一戦、66回目の「早明戦」は早稲田が残り4分から2トライを挙げて24-24の引き分けに持ち込んだ。この結果、7勝1分けの早稲田、8勝1分けの明治の両校優勝。早稲田は3年ぶり13度目(通算28度目)、明治は2年ぶり7度目(通算21度目)の栄冠に輝いた。

当時は試合数が異なっていたため、同じ対戦校との試合の得失点差で計算すると早稲田が+290、明治が+287。交流戦には早稲田が1位、明治が2位で進出した。

早明戦の勢いのまま、早稲田は交流戦で法政に44-17で勝利すると、大学選手権の1回戦は福岡大に100-7で圧勝、さらに準決勝も同志社を50-8で下して、危なげなく決勝に進出した。早明戦で最後の独走トライを決めた早大のFB今泉清(4年、大分舞鶴)は「決勝には明治が来るかなと思ってました」と振り返る。

一方の明治は、やや苦労した。交流戦こそ日大に51-6で勝利し、選手権の1回戦では明治と同じくFWのチームである大体大を27-6で下した。準決勝も同じく関西勢の京産大と対戦し、前半はリードを許した。それでも後半に逆転し、29-15で決勝に進んだ。「ほかの大学に失礼ですが、早稲田に来てほしいと思ってましたし、絶対、俺らにも決勝に行くと思ってました」。明治のキャプテンだったWTB吉田義人(4年、秋田工)は言った。

こうして両エースのもくろみ通り、早稲田と明治は順当に勝ち進み、1991年1月6日、大学選手権の決勝というまたとない舞台での再戦が実現した。もちろん国立競技場には6万人が駆けつけ、超満員となった。

「形うんぬんより、決着をつけたいと思ってました」と早稲田のFLだった相良南海夫(3年、早大学院)。明治のキャプテン吉田は「早稲田がいるから我々もいる。負けたらこの試合で大学ラグビーは終わり。勝っても負けても堂々と真っ向勝負して、握手して去ろう」とチームメートに話したのだという。

日本を代表するWTBでもあった吉田。明治の監督も務めた (撮影・斉藤健仁)

今泉「押し出せばよかった」

決勝は明治がFWで縦に突けば早稲田がBKで展開するという、両校の持ち味がぶつかる激闘になった。前半、明治は9分、28分のPGのチャンスにWTB丹羽政彦(4年、羽幌)が決めて6-0とリード。早稲田は34分、味方のキックしたボールを1年生WTB増保輝則(城北)が拾ってトライ。6-4で試合を折り返した。

後半も明治が先に得点する。FL佐藤久富(3年、秋田工)が3分にトライを挙げて12-4とリードを広げた。しかし早稲田もすぐに反撃。PGを決めた後、16分には再び、キックからFL相良がトライを決め、ついに12-13とひっくり返した。

だが、明治に動揺はなかったという。「焦りは感じなかったです。国立競技場の大観衆に慣れるのに時間がかかりましたけど、コンタクトすると相手の力が分かりますから。セットプレーは明治の方が上でしたし、いつか明治の波が来るなと思ってました」。PR佐藤豪一(3年、國學院久我山)は、そう振り返る。

明治にビッグプレーが生まれたのは後半26分のこと。起点は右のラインアウト。やや乱れたが、明治はどうにかキープして、副将のHO西原在日(4年、大工大)、FB小杉山英克(3年、秋田)が縦に突いて、相手のディフェンスを右サイドに寄せる。当時の明治はグラウンドを15分割し、そのエリアごとに4つほどの攻撃のオプションを持っていた。それらを繰り返し練習で確認していたという。

再びHO西原が突破。SH永友洋司(2年、都城)が素早く左に展開。SO鈴木博久(3年、本郷)がひとり飛ばしてCTB元木へパス。元木は相手の激しく前に出るタックルに対して、すばやくWTB吉田へつなぐ。ハーフウェーライン上でパスを受けた吉田の前には、大きなスペースが空いていた。

当時、すでに日本代表にも選出されていた吉田は100m10秒台の快足を飛ばし、無我夢中で思わず「キヨシ-!」と叫んで走っていた。早稲田の今泉の名前だ。吉田は言う。「パスをもらった瞬間、左サイドにスペースがあるのは分かりました。ボールを持ったところからが僕の真骨頂。今泉はアタックも素晴らしかったですけど、守護神でもありました。1対1の勝負をつけないといけない、と思いました」

「WTBの郷田が元木のところに詰めたから吉田が外にコースを変えて、後追いになりました」という早稲田の今泉。あわてて対応するが、すでにトップスピードに乗っていた吉田の芯にはタックルできなかった。「いま思えばタッチラインにポンと押し出せばよかったんですけど、タックルで止めようと思ってしまった。上にいくか下にいくか一瞬迷って。襟首を捕まえて倒そうとしたんですが……。(襟首に)触れた感覚は、いまでも残ってます」

バッキングアップした早稲田の3人が吉田を止めようとタックルに来るが、吉田の急激なストップ&ゴーと反転にタックルポイントをずらされた。次々に3人をかわし、吉田はインゴール左隅にグラウンディング。50mの独走トライで、16-13と再逆転に成功した。

後半26分のトライの直前。明大の吉田(中央)が早大の今泉(右端)、増保(右から2人目)らのタックルをかわした

感動し、握手を求めた今泉

トライの直後、吉田は仰向けに倒れながら、両手を天に突き上げて喜びを露わにした。「不思議な光景でした。倒れたときに目の前に部員96名がいるような気がして、それに応えてガッツポーズしました。自分が決めたというより、みんなの後押しがあったからこそのトライでした」と吉田。満員の国立競技場には「ヨシダ! ヨシダ!」のコールが響き渡っていた。

「試合はうまくいっている感じはありましたけど、あのトライは吉田さんの執念でした」と、悔しそうに振り返った早稲田の相良。FLとして明治SH永友をマーク仕切れなかったことが痛かったという。「あの場面で後悔があるとすれば、永友にやられました。ちょろちょろ仕掛けてきて、隙をつかれた」

現在、早稲田の監督である相良は3年生のFLだった (撮影・斉藤健仁)

明治は対抗戦での苦い経験もあり、残り10分、早稲田の攻撃に集中して止めた。そのままノーサイドを告げるホイッスルが鳴り響いた。明治は2年ぶり8度目の大学王者に輝いた。

当時89歳だった明治の北島忠治監督(故人)は「FWもよくやったが、勝因はディフェンス。特に両CTBの守りがよかった」(1991年1月7日付朝日新聞朝刊)と、元木と岡安倫朗(2年、明大中野高)の2人を称えた。早稲田の高橋幸男監督は「選手はよくやったと思う。100点をやりたい。ただ明治の第三列の突進を止められなかったのが……」(同朝刊)と複雑な表情を見せた。

こうして2度にわたる「早明戦」は、明治の闘将による執念のトライで決着した。「感動した!」という早稲田の今泉は、悔しくてすぐロッカールームに戻る仲間もいる中で、勝者を握手で称えた。

「全員でボールを持って走る。1年間やってきたこと表現できた。たまたま、俺が最後にみんなの魂を受けて、抱いてトライさせてもらっただけ」。入学早々に北島監督がブレザーをプレゼントしたという逸話も残る吉田は、表彰式で涙が止まらなかった。1年間、キャプテンという重荷を背負い、常に先頭を走り続けて、最後の最後まで明治が掲げる「前へ」の魂を体現。90年度、学生相手に無敗で駆け抜けて頂点に立った。

優勝を決め、抱き合って喜ぶ明治の選手たち

この記事をシェア

in Additionあわせて読みたい

Seriesこの連載をもっと読む

この連載の記事一覧へ

伝説の名勝負

Their Stories大学別・競技別に読む