1990年冬、ラグビー早明戦2度の死闘(上) 劇的独走トライ 「光が見えた」早大・今泉
大学スポーツには、いまも語り継がれる名勝負がたくさんあります。4years.ではその主役たちに取材し、当時の思いや、いまだから言えることを語っていただきます。そしてできるだけ立体的に名勝負を再構成し、随時連載でお届けします。
第1回は1990年から91年にかけての冬、2度の死闘を演じたラグビー早明戦にスポットライトを当てます。
大学ラグビーにおける「ライバル対決」と言えば、ラグビーを長く見てきたファンほど関東大学対抗戦の早明戦を思い浮かべるのではないだろうか。早稲田と明治の闘いは1923年に始まり、73年から2013年までは6万人収容の国立競技場を常に満員にし、臙脂(エンジ)のワセダと紫紺のメイジが数々の名勝負を繰り広げてきた。80年代、90年代には、当日券を求めて1週間前から徹夜組が出る社会現象にまでなった。
昨年までの通算成績は早稲田の53勝38敗2分。来たる12月2日に東京・秩父宮で対抗戦の優勝をかけて早明がぶつかる。94回目は平成最後の早明戦でもある。その一戦を前に、1990(平成2)年度の2度の早明戦について3回の連載で振り返っていく。
「残り4分くらいは悪夢」
90年12月2日、対抗戦の全勝対決となった激突は国立競技場に6万人の大観衆を集めた。序盤から明治が優勢だった。SH永友洋司(2年、都城)のトライやPGで、後半37分まで24-12とリードしていた。
当時のキャプテンで大エースのWTB吉田義人(4年、秋田工)は「いま思うと、完全に試合は明治ペースでした。ダブルスコアだったし、いいゲーム運びもできてた。みんな勝てると思ってました」と振り返る。吉田の1年後輩でスクラムリーダーだったPR佐藤豪一(3年、國學院久我山)も同じ意見だった。「負けるなんて全然思ってなかった。おごるつもりもなかった。ただ、残り4分くらいは悪夢のようでした」
残りはロスタイムも入れて4分ほど。明治には悪夢、早稲田には奇跡のドラマが始まる。
後半38分、早稲田はゴール前10m付近、右のラックからさらに右へ展開。キャプテンSH堀越正巳(4年、熊谷工)がWTB郷田正(4年、筑紫丘)へとパス。郷田が右のタッチライン際で2人のタックルをかわし、中央に周りこんでトライ。24-18に追い上げる。
そして時計はロスタイムに。この試合のラストプレーだった。
明治のWTB吉田が蹴ったキックオフを右サイドで受け、早稲田は一度モールを形成してから左に展開。SO守屋泰宏(3年、早大学院)はインサイドCTBを飛ばし、アウトサイドCTB吉雄潤(3年、國學院久我山)へとパス。吉雄はすぐ左にライン参加していたFB今泉清(4年、大分舞鶴)へ。1年生から活躍してきた大型FBはそのまま斜め左へグングンと加速。減速することなく最後のタックラーをかわすと、左中間のインゴールへ飛び込んだ。80m独走のノーホイッスルトライだった。国立競技場に歓喜の怒号と悲鳴が飛び交った。SO守屋がコンバージョンを決め、24-24の同点になった瞬間にノーサイド。
同時優勝だったが、早稲田の選手たちは勝ったかのように大喜びし、明治の選手たちは負けたかのように沈んでいた。「負けはしなかったですが、交通事故にあったみたいで気が動転してしまいました」。明治のPR佐藤は、そう振り返る。
「パッ、と走るコースに光の道が見えたんです」
いまも語り草になっている80mの独走トライを今泉に振り返ってもらうと、こう表現した。
実は、キックオフリターンからFBの今泉がライン参加するサインプレーは、何度も何度も練習で繰り返していたものだった。「練習からイメージしてやってきたことと、実際に起きたことがリンクした。『このラインを走ればいい』って、コースが光って見えた。そこしか見えなかった」。これが伝説のトライの真実だ。
肉離れを抱えていた吉田
実は、この年は明治が優勢とみられていた。
前年度は早稲田がNo.8清宮克幸(4年、茨田)やLO後藤禎和(4年、日比谷)という強力FWを擁して、対抗戦では明治を28-15で粉砕するだけでなく、大学選手権では日体大を45-14で下して日本一に輝いていた。しかし新チームになると、FWのレギュラークラスが一気に抜けたため、春の練習試合は明治に14-64で完敗していた。
しかも明治はWTB吉田がキャプテンに就任すると、徹底したフィットネス強化に乗り出した。「ラグビーは70m×100mのグラウンドを広く使うために、FWも走らないといけない。だから僕が先頭になって走ってました」と吉田。キャプテンが率先して走ることで、FWもBKも関係なく、走った。しかも早稲田よりも平均体重が6kgほど重かったFW陣は、さらにウェイトトレーニングを重ねた。
それでも対抗戦の早明戦では勝てなかった。
キャプテンの吉田は「俺のせいで負けた」と自分を責めた。後半26分に、左のふくらはぎに違和感を覚えていた。肉離れだった。郷田のトライについても「足が動かなかったから、イチかバチか詰めてしまった。そこを吉雄にパスされた」と悔やむ。
最後のキックオフを吉田が振り返る。「試合後に『なぜ奥に蹴らなかったの』と記者の方に言われましたが、トライを取りにいったんです」。もう1本取って勝とうとしたのだ。逃げきることは考えなかった。ただ、キックの際の軸足は痛めた左。踏ん張りがきかず、ボールが高く上がらなかった。味方はそのボールに競りにいけず、早稲田にクリーンキャッチされ、相手のトライまでいってしまったのだった。
「足が痛ければ誰かに蹴ってもらえばよかったかもしれないし、本当は100%走れないならグラウンドから出る勇気も必要だったかもしれない」。いま、吉田はこう思う。しかし当時、メイジの主将としてのプライド、使命感がそれを許さなかった。
一方の早稲田はシーズン当初から「FWが弱い」「FWが弱い」と言われており、キャプテンのSH堀越、WTB増保輝則(1年、城北)、WTB郷田、FB今泉らタレント揃いのBK陣を生かすためにも、FWの強化が急務とされていた。
FLとしてレギュラーを張っていた相良南海夫(3年、早大学院、現早大監督)は「BKにくらべるとFWには地味な選手が多かったです。きっちり仕事をするしかなかった。一つひとつのパーツパーツをしっかりとしていくしかない。基本のスキルを積み上げて、それがチームとして機能しました」。当時の高橋幸男監督の指導を思い返しながら話した。
今泉も言った。「春に負けても、夏の間にライバルとの差を埋めていくのが早稲田です。いつもの話ですし、本番で勝てばいい。そういうマインドを持ってます」。結局、早稲田は春から夏に調子を上げ、明治にも引き分け、対抗戦1位通過で大学選手権に進んだ。
90年度の早明戦は、双方が対照的な受け止め方をした引き分けに終わった。
「決着をつけるなら大学選手権の決勝で……」。早明の選手が、ともに心に誓っていた。