「いつかお前も」父の言葉でオリンピックを意識 元法政大水泳部・内田翔3
連載「私の4years.」5人目は、元法政大学水泳部の内田翔さん(31)です。2008年の北京オリンピックに競泳男子の200m自由形と800mリレーで出場しました。3回目は大学2年生で地元の群馬に戻り、再び泳ぎ始めてから北京オリンピック代表選考会の直前までの出来事について、本人が綴ります。
群馬から新幹線通学の日々
法政大学に入って極度のスランプに陥った私は、2年生の5月に練習拠点を都心から群馬県高崎市に戻し、実家から大学のキャンパスまで新幹線で通い、授業後は新幹線で群馬に戻って練習をするという生活になりました。もちろん、新幹線通学はとにかくお金がかかりました。サポートしてくれた両親には、感謝の言葉しかありません。
ここで私がオリンピックを目指そうと思ったきっかけに触れたいと思います。
私の実家は4月から10月ごろまで榛名山でキャンプ場を経営しています。
余談ですが、群馬県には「上毛かるた」というものがあり、「あ」から「わ」までの合計44枚で構成され、群馬の有名人、地理、文化が網羅されています。そのかるたの一枚に「登る榛名のキャンプ村」という句があり、この「キャンプ場」が私の実家のキャンプ場のことなのです。夏休みになるとキャンプ場の手伝いをしながら、宿題をしたり、釣りをしたり、サイクリングをしたりして楽しんだことが懐かしい思い出です。
ふと目にしたアトランタ五輪
あれは1996年、私が小学校2年生の夏休みのこと。父と一緒に過ごしていたある日、ふとテレビに目を向けると、開催中のアトランタ・オリンピックのプールの映像が流れていました。当時は人が泳いでいるということしか認識できなかったのですが、父から「いつかお前もこの舞台に立てるといいな」と言われたのは鮮明に覚えています。
子どもながら見入っていたこと、そして、オリンピックの存在をこのとき初めて知り、意識し始めたのを覚えています。
人は、夢を持つことで自分が何をすべきなのかという意識に変化が起こります。私も、子どものころ夢見たオリンピックを、夢から目標に変え、実現させるために泳ぎました。日々の生活がオリンピックに出るための行動に変わったのです。
そのため、大学2年生で群馬に戻ってきてから、寝るか、食べるか、泳ぐか、学校へ行くかの生活でした。目指すものが明確になると、人は変わるのです。
代表選考会まで1年を切り、コーチと衝突
しかし、一つ懸念があったのも事実です。それは、北京オリンピックの代表選考会まですでに1年を切っていたことです。
2007年5月のゴールデンウィーク合宿中のことです。とにかく厳しい練習を詰め込んできた小茂田猛コーチに対し、「ハードな練習が多すぎる」と、ついつい弱音を吐いてしましました。するとお互いに激しいやり取りに発展。
コーチ「選考会まであと1年しかないんだ。このくらいのことできないでどうする」
内田「いや、まだ1年もありますから。そんなに詰め込まなくたって大丈夫じゃないですか」
いまでは笑い話ですが、当時はよくこのように言い合ってました。私は、まだ時間があると思えば気持ちに余裕ができて、有意義な練習ができると信じていました。物事はポジティブに考えることが大切だと思います。そうした心持ちで、実際のところコーチとは良好なコミュニケーションがとれました。
支えてくれた大学のクラスメート
大学の授業も学ぶことが多く、充実した日々を送っていました。そんなある日、クラスメートの前原雅樹君と学食で食事をしているときに、ふと彼が「お前がオリンピックで泳いでいる姿を見てみたい」と言いました。前原君は自分が落ち込んだり、もがいたりしていたとき、折に触れて相談相手になってくれた友人です。彼は、実は私と出会ったときすでに両親を亡くし、アルバイトをしながら妹を養っていました。彼にもダンスで有名になるという夢があり、日々アルバイトと大学、そしてダンスという生活をしていました。彼の方がさぞかしつらい状況にあるにもかかわらず、私が相談を持ちかけると、いつも笑顔で励ましてくれました。
その日も笑顔で練習に送り出してくれたことをいまでも覚えていて、そのとき彼に「オリンピックに出る」という約束をしたのを昨日のことのように思い出します。
大一番が近づき、入った「ゾーン」
さて、2008年に入り、練習はさらに強度を増します。そのころ私は、身体的肉体的に超集中状態、いわゆる「ゾーン」に入りました。どんなに練習しても疲れない。いつ試合があっても大丈夫という、広島カープの緒方孝市監督が言った「神ってる」状態とでも言うのでしょうか。
勢いそのままに、最終調整の時期を迎えます。人事を尽くして天命を待つ。極限の状態に到達したのです。
あとは全てを出し切るのみ。いざ、北京オリンピック代表選考会に向かいます。