どうしても日大に行きたかった 田坂友暁・1
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人たちと力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。2人目は元日本大学水泳部の田坂友暁さん(38)。田坂さんの青春を6回に渡ってお届けします。
大先輩からの電話
19年間にもおよぶ水泳キャリアの中で、私には恩師が星の数ほどいる。恩返しなど私の一生をかけてもできないほど、多くの方々に助けていただき、いまの自分がいる。そして、私が日本大学水泳部で過ごした4年間を綴(つづ)るにあたり、最初に書いておかなければならないことがある。私が日大に進学できた経緯だ。少し重たい話になることは、ご容赦願いたい。
大学進学の話になったとき、日大に進学するには条件があった。必ず日大の寮に入り、日大で練習することだ。ほかのスポーツでは当たり前かもしれないが、競泳の世界では大学に所属はするものの、日々の練習はスイミングクラブでする人も多かった。私も、大学進学後も高校時代から所属して寮にも入っていたスポーツクラブでの練習を希望していた。そのために私は、高3の夏には日大進学を諦め、ほかの大学への進学を決めた。確かに、決めたのだ。
しかし、私の胸の中にはずっと日大への思いがあった。私はもともと、自分の競技レベルを高めることが唯一の目標で、リレーやチーム戦を煩わしく感じるタイプだった。そんな自分勝手な私が、なぜ日大に拘泥していたのかは、正直言って、いまもよく分からない。
ある日、当時日大水泳部のコーチを務めていた山仲豪紀さんから電話があった。山仲さんは私が所属していたスイミングクラブの大先輩だった。山仲さんは私に言った。
「お前、どうしても日大に入りたいか? 」
山仲さんに出会ったのは、私が高2のときだった。私は当時から日大への進学を希望していた。そんな私に「そんなに日大に来たいなら、これをやるよ」と言って、裏に「NIHON UNIV.」と刻まれた腕時計を渡してくれた。そのときの感動たるや、いま思い出しても目頭が熱くなる。もう時は刻まない時計となったが、いまも大切に保管している。
そんな経緯を覚えていてくださった山仲さんからの問いかけに、私は迷わず「行きたいです」と答えた。すると、山仲さんは一呼吸おいて「そうか、分かった。1週間だけ待ってろ」と言って電話を切った。何が何だか分からない私は、その話を誰にもできなかった。
1週間後、再び山仲さんから電話がかかってきた。「お前、日大に入れるぞ。練習もスイミングクラブでやっていい。話をつけた」。練習環境も生活環境も変えることなく、自分が希望していた日大に入れるのだ。うれしいはずだった。だが、なぜか私は心から喜べなかった。
謝罪に行って励まされた
その電話の後、いつものようにスイミングクラブの練習に行くと、当時指導していただいていた鈴木陽二コーチ、小島竜司コーチに呼び出された。そして、一喝。
「お前はなんてことをしてくれたんだ」
その一言で、すべてを悟った。ただ自分の希望を叶えたいがために、そもそも行く予定だった大学に願書も提出せず、コーチに相談も連絡もしていなかったのだ。自分勝手極まる一連の過ちに、この一喝で気付かされた。私が心から喜べなかったのは、この過ちを少しは理解していたからかもしれない。
その後は日大進学の手続きを進めつつ、元々進学予定だった大学の水泳部部長や監督を始めとする先生方、水泳部員の方々一人ひとりに謝罪に回った。そのとき、その大学で当時部長を務めていらっしゃった間宮聰夫先生が、私にかけてくださった言葉をいまも忘れることはできない。
「君の意志が強いことは分かった。私たちに対する恩返しは、君がこれから頑張って、結果を残すことだ。わざわざ来てくれてありがとう」
人として最低な行動をとって不義理を働いた私を認め、これからも応援してくれるというのである。涙が出た。心の底から、自分勝手な行動を恥じた。
いまはもう、このお二人に恩を返すことはできない。山仲さんは、私が日大に進学した1年目の夏を迎える前にバイク事故で亡くなられた。私に優しくも厳しい言葉をかけてくださった間宮先生も、2007年に逝去された。
大学を卒業してから17年が経ったいまでも、先生方、コーチの方々への感謝の思いを忘れたことはない。たくさんの人に迷惑をかけながら、それでも自分を応援してくださる方々への思いを胸に、私は日大水泳部の4年間をスタートさせた。
だが、1年目から私は苦しむことになる。