コーチのスリッパで目が覚めた 田坂友暁・3
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元日本大学水泳部の田坂友暁さん(38)の青春、第2弾シリーズの3回目は腰痛からレースに復帰する過程で支えてくれたコーチについてです。
腰痛という便利な言いわけ
あこがれていた日大に入学し、短水路の日本選手権で表彰台に立った私にとって、腰痛の発症は青天の霹靂であり予想外の挫折だった。正直、当時の私は腰痛を甘く見ていた。体の中心部分に故障を抱えると、人間はここまで動けなくなるのか。ただ驚くばかりの日々。朝、目が覚めても体を起こせず、歩くこともままならない。服を着替えるのもひと苦労。生活のすべてが、腰痛によって不自由になった。
当然、練習など思うようにできるはずもない。腰痛を発症してから1週間ほど経ったころだっただろうか。ようやく泳げるようになったので、できる範囲で練習に参加し始めた。
練習拠点のセントラルスポーツでは、鈴木陽二コーチに指導していただいていた。ソウルオリンピック金メダリストの鈴木大地さん(現スポーツ庁長官)をはじめ、多くの名選手を育てた人だ。
鈴木コーチから紹介された治療院で診てもらうようになり、少しずつだが腰痛は回復に向かった。練習の質も量も、少しずつ元に戻っていった。しかし、一度折れた心はなかなか修復できない。頑張ろうという気持ちが、まったくわいてこなかった。
腰痛だからと、練習量はまだ周囲の半分程度。全力で泳ぐことなど、ほとんどしない。コーチを含め、周りの人たちから大事に扱ってもらえた。私はあぐらをかいていた。腰痛という便利な言いわけを得て、それを理由に練習をサボったり、手を抜いて泳いだりした。
「人間は楽な方に流れる」。誰が言ったか知らないが、人の本質を突いていると思う。スイミングクラブに定期的に来てくれていたトレーナーの桑井太陽さんや、通っていた治療院の先生のおかげで腰痛は回復に向かっていたが、「ちょっと腰の調子が悪いです」と大げさに言っては練習をサボっていた。そんな私に、天罰が下らないはずがない。
ある日、いつものように手を抜いて練習していたら、スリッパが飛んできた。驚いた私がプールから見上げると、鬼の形相の鈴木コーチが目の前で仁王立ちしていた。そして怒鳴られた。
「やる気がねぇなら、やめちまえ!! 」
鈴木コーチの温かい言葉
目が覚めた。いや、すぐには覚めなかった。鈴木コーチの檄を受けた直後は「分かった、やめてやらぁ!! 」と言わんばかりにふてくされた。
しかし、基本的には根が真面目な私である。昔からワルになりきれない、いわゆる「へたれ」。鈴木コーチの言葉の重さに気づき、自分のとった行動に後悔した。今後どういう顔をして鈴木コーチと接すればいいのか分からず、ひとり頭を抱えていた。
意を決して練習に向かうと、鈴木コーチはいままでと何ら変わらない。私を叱ったことすら、なかったかのようだった。拍子抜けした私だったが、その日から決して無理はせず、自分のできる範囲で全力を尽くすようにした。腰は定期的な治療が必要だったが、少しずつ快方に向かっていた。
迎えた大学での最初の夏。日本インカレの100mバタフライで、自己記録をわずかに更新。メドレーリレーのメンバーにもなり、3位で表彰台に立てた。
リレーのレース後、試合会場で鈴木コーチと顔を合わせたとき、鈴木コーチは本当に満面の笑みを浮かべて、私の肩を叩きながらこう言った。
「やればできるじゃねぇか。頑張ったな」
あふれ出そうになる涙をこらえ、「はい」と返すのが精一杯だった。何のためにわざわざ高校から寮に入ってまで水泳をしているのか。何を志してこの場にいるのか。その志のために自分は何をすべきなのか。鈴木コーチは檄と励ましと言葉と笑顔で、そのすべてを思い出させてくれた。この日、私はこの人を師と仰ぎ、一生ついていこうと決めた。