一世一代の挑戦、終わる 田坂友暁・5
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元日本大学水泳部の田坂友暁さん(38)の青春、シリーズ5回目です。田坂さんは学生最後のシーズンを迎えるにあたり、ある決心をしました。
最後のシーズン、国際大会出場にかけた
私は水泳が好きだ。それは当時もいまも、胸を張って言える。進研ゼミをやってもダメ、学研をやってもダメ、英会話も、読書も、エレクトーンも、サッカーも……。子どものころに始めたものは、何も3カ月と続かなかった。でも、水泳だけは違った。父に叱られて「やめてしまえ 」と言われても、やめなかった。阪神大震災で当時通っていたプールがなくなったときは、和歌山で下宿生活をしてまで続けた。「水泳が好き。続けたい」という思いだけは、いつだって消えなかった。
一方で、社会人になっても泳ぎ続けるつもりはなかった。最初から。そういう時代だったとも言えるし、自分が勝手に決めていたことでもあった。なぜ決めていたのか、明確な理由はない。
大学3年の夏が終わり、私の水泳人生は残り1年となった。毎年恒例の鈴木陽二コーチとの面談があった。私が4年になる年は、パンパシフィック選手権とアジア大会という、ふたつの国際大会のある年だった。
パンパシは少し特殊な大会だった。通常の国際大会であれば1カ国・地域から1種目に2人しか選ばれないが、パンパシだけ3人が選ばれる可能性があった。鈴木コーチは言った。「53秒台を出せれば、3番手に入れる可能性がある。そうなれば、パンパシには出られるだろう。どうだ、やるか? 」。この瞬間、私の最後の目標が決まった。
そこで私がまず何をしたか。父に電話をかけた。「おとん、すまん。もう1年だけ大学に行かせてくれへんか? これが最後やねん。最後の1年は、水泳だけに集中したいねん」。事実上の「学校行かない宣言」である。
そのときはまだ3年の後期だったが、どう考えても、4年で卒業するには毎日朝から晩まで学校に行く必要があった。ちなみに、3年を終えた時点で修得できた単位数は84。まさに2、3年のころに遊んでいたツケだ。自分の水泳人生の幕引きのために、やれることはすべてやりたい。そう思い、学校に行かないでひたすら水泳をやる決意をした。
私は昔から不器用で、ひとつのことにしか全力で取り組めなかった。それはいまも同じ。自分がまいた種だけに、スジは通すべきだと父に連絡を入れたのだ。
すると父はいつも通り、渋い声でゆっくりと返してくれた。「お前は浪人ぐらいすると思ってたけど、それもせずに大学に入ったしなあ。1年ぐらいは面倒みてやる」
1日ずれたピーク
そこからは水泳だけの生活。自分が考え得る限り、ありとあらゆることをした。目標とする山本貴司さんのバタフライは、文字通りビデオテープがすり切れるほどに繰り返し見た。セントラルスポーツの食堂の棚を埋め尽くすほどに並んでいた過去のビデオもほとんど見た。自分が53秒台を出すために何が必要か、どんな泳ぎが必要なのか。考え、試し、修正し、また考えては、試す。練習後にも陸上トレーニングを追加した。けがを抱えていた肩や腰に細心の注意を払いながら。
そして迎えた6月の日本選手権。ピンポイントで男子100mバタフライの日に調子を合わせることができた。水に入った瞬間、自分が最高の状態であることがすぐに分かるほどだった。
だが、1日ずれていた。予選と準決勝がある日にピークが来てしまったのである。翌日の決勝では53秒台どころか、準決勝で出した54秒24の自己ベストにも及ばない54秒40で5位……。
泳ぎ終わったときの光景は、いまも目に焼き付いている。泳いできたレーンの波と水音。降り注ぐ天井からの光と歓声。無情にも、名前の横に「5」と記された電光掲示板。19年の歳月をかけた、田坂友暁一世一代の挑戦が終わった。