陸上・駅伝

連載:私の4years.

武骨な看板が私を陸上に連れ戻した 長谷憲明・1

茶髪で大学デビューを果たした長谷さん

全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人たちと力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。3人目は元横浜国立大学陸上部の長谷(はせ)憲明さん(35)。短距離走にかけた長谷さんの青春を5回に渡ってお届けします。つらい浪人時代を終え、「大学デビュー」を果たした長谷さんは“明るい未来”を探し求めました。

浪人しながら描いた“未来予想図”

「テニスサークルしかない!!」。まだ雪の残る3月の札幌で、私はそう固く決意していた。

高校時代は進学校に通いながらも、3年間ろくに勉強せず、陸上部にすべてを注いだ。3年生で挑んだインターハイでは、男子100m準決勝で敗退。目標の決勝進出はかなわず、スタンドで泣きながら決勝を見た。大学でも続けたい。そう思った。しかし、当時目標としていた大学にスポーツ推薦などはなく、何より、私自身が受験勉強は経験すべきだと思っていた。手っとり早くスポーツ推薦のある大学へ進んで陸上を続けるより、浪人してでも目標とする大学に進むべきだ、と。

予定通り(?)現役の受験に失敗し、浪人生活に入った。悲しいかなセンター試験に失敗し、目指していた大学をあきらめて理系から文系に“変身”。国語の苦手な私は二次試験で国語がない国公立大学を探し、名古屋大学と横浜国立大学(以下、横国)に狙いを定めた。「愛知より関東がいいな」という理由だけで横国を受験し、合格した。

合格はしたが、目標を達成できずに受験を終え、入りたいわけでもない学部に入った。挫折感に劣等感。なんとも複雑な気持ちだった。もともと勉強が好きではない私は、この時点で大学での勉学にやる気を失った。一方で高3の夏、インターハイ会場のスタンドで流した涙の記憶は、1年間の浪人生活ですっかり忘却の彼方へ。陸上をやる気もさらさらなく、何より運動できるような体ではなくなっていた。

そのとき、私の脳内にたった一つあったのは、横浜のキャンパスで彼女と手をつなぎ、テニスサークルに入って遊びほうける“未来予想図”だった。いまこそ“ドリームズカムトゥルー”である。

1ミリも面白くなかった新歓コンパ

熱い思いをたぎらせて横浜の地に舞い降りた私は、入学早々、フローズンマンゴスチンだか、ポテトヘッドだか、すでに名前も思い出せないテニスサークルの新歓コンパに何度か参加した。目の前で繰り広げられるお酒のコール、一気飲み、酔いつぶれて倒れていく若者たち。私は言葉を失い、そして思った。「おやおやおや? 1ミリも面白くないぞ……」。おかしい。これが浪人してまでたどりついた私のドリームなのだろうか?

このままテニスサークルに入ってもいいものかと迷いつつキャンパスを歩いていると、陸上部の勧誘用の看板が目に入った。それは華々しくいかにも楽しそうな遊び系サークルのものとは違い、武骨さを感じさせるものだった。そこに私は心地よさを感じていた。

一瞬でよみがえった懐かしい感覚

サークルにはなじめそうもないと思い始めていた私は、その場で看板に記載されていた連絡先にコンタクトをとり、すぐにグラウンドへ向かった。もう十数年前のことであり、記憶はあいまいだ。それでもグラウンドを見た瞬間「走りたい」と思ったのは鮮明に覚えている。

もともと大学で陸上をやる気がなかった私は、ランニングシューズどころかジャージも持たずにグラウンドを訪れていた。そこにいたマネージャーさんに「走りたいからシューズとジャージを貸して下さい」と申し出た。借り物を身につけ、私はグラウンドを一周した。

「これだ!!」

足裏から伝わる地面からの反発、ウィンドブレーカーのサラサラとこすれる音、顔に当たる風の感触、マネージャーさんがタイムを読み上げる声……。さらには何気ない陸上談義など、すべてが自分にとって非常に心地のいいものだった。その日、私は当初の“ドリーム”をあっさり捨て去り、“未来予想図II”として陸上部への入部を決めたのだった。

もともと暑苦しい体育会系の雰囲気が好きではない私には、いわゆる強豪ではない横国陸上部がまた合っていた。ユルい練習の様子とまったりとした部員たちを見て「これなら自分のペースで好きにできるな」と思ったのも、入部の決め手になった。

懐かしくも汗臭い、私の4years.が始まった。

私の4years.

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