陸上・駅伝

連載:私の4years.

ファミレスで陸上を語り合った日々 長谷憲明・2

大学1年生のころの長谷さん(中央)。先輩や同期とすごす中で、次第に気持ちに変化が現れた

全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人たちと力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元横浜国立大学陸上部の長谷(はせ)憲明さん(35)のシリーズ第2回目です。入学して部活中心の日々が始まり、いきなりリレーメンバーに選ばれた長谷さんですが、心も体も戦う準備ができていませんでした。

1浪で入学直後にリレーメンバー入り

陸上部に入部して1カ月、関東インカレが迫っていた。前年は浪人生活のまっただ中で、試合に出場するための参加標準記録を突破していなかった。そもそも記録がなかった。100mでの出場はかなわなかったが、400mリレーの代表に入った。

このとき、1年以上のブランクがある自分がリレーメンバーになれたことに、複雑な思いがあった。いくら国立大学で強豪校ではないとしても、「そりゃないでしょ」と思った。また、このときは関東インカレの位置づけもよく理解していなかったので、「まあ、できる限りのことはするか」くらいの気持ちで参加した。

話は少し変わるが、スポーツでトップ選手になるには才能がいる。とくに短距離は「99%の肉体的な才能と1%の努力」とも言われている。残念ながらチワワがどんなに体を鍛え続けたとしても、ライオンを捕食できるようになる可能性はゼロだ。生存競争に勝ち抜くには、まずライオンとして生まれる必要があり、その前提条件を満たした者だけが勝者足りうる。一方でどんなに肉体的な才能に恵まれていても、「心」が追いつかなくなる場合がある。「速く走りたい」「勝ちたい」という気持ちはもちろん、競技を「楽しい」と思う気持ちがなければ、才能あふれるライオンも、眠れる獅子に成り下がる。

何とも思わなかったバトンミス

入学まもない関東インカレのとき、私には「楽しい」という感覚があったし、「速く走りたい」という思いもあった。ただ「勝ちたい」という気持ちは非常に弱かった。そもそもブランクがあって体も戻っていない上に、心はまったく追いついていなかった。大会前の練習でも精神的な高ぶりもなかった。案の定、本番は予選でバトンパスに失敗。予選落ちとなった。

予選のあと、先輩方が私に気を遣い、いろいろとなぐさめの言葉をかけてくれた。なのに私はというと、ミスのことなどいっさい気にしていなかった。そんな自分に驚いたし、それを表面に出してはいけないという常識は持ち合わせていたので、終始悲しそうな顔をするようにした。何も感じなかったというのは、おそらく部への愛着が何もなかったからなのだろう。まさに心ここにあらず。それにしてもひどいヤツだった。

「陸上な日々」で芽生えた仲間意識

関東インカレから数カ月が経ち、土曜日を含めた週5日の練習がとても楽しみになっていた。自分と同じように陸上が好きな同期や先輩に囲まれた中での練習は、浪人明けの体にはこたえたが、毎日をとても充実させてくれた。練習後は毎日のように近所のファミレスに行き、何時間も陸上について話した。4年生になるころには、長年勤める店員の方に「息子たち」と呼ばれるほど、そのファミレスに入り浸っていた。生産性は乏しかったかもしれないが、仲間たちと大好きな陸上について話したすべての時間が、心の底から楽しかった。

当時、陸上部の男子は関東2部に属しており、みな1部昇格を目標として練習に取り組んでいた。私は個人競技の陸上において「部」は基本的に「箱」としか思っていなかった。しかし同期や先輩たちと「陸上な日々」を過ごすことで自然と仲間意識が強くなり、さらにはその仲間たちの共通目標達成に自分も貢献したい、と強く思うようになっていった。その意識の変化もあってか、ブランクをはねのけ、1年生の秋には100mの記録を10秒台に戻せた。

「やはり俺はライオンだ。待ってろよ、チワワども!! 」

そんな「着ぐるみライオン」である私だが、翌年の関東インカレでは必ず表彰台に立ち、部に貢献できると信じて疑わなかった。が、そうは問屋がおろさないのである。だって「着ぐるみ」だから。

私の4years.

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