偉大な先輩から受け継いだ主将 長谷憲明・4
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人たちと力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元横浜国立大学陸上部の長谷(はせ)憲明さん(35)のシリーズ4回目です。今回は長谷さんが敬愛する1学年上の主将だった徳永剛さんと、顧問の伊藤信之教授との思い出です。
いろんな目的意識の人が混在した陸上部
私の大学での陸上生活は、徳永さん抜きには語れない。
横国大陸上部には学生のトップを狙うような選手から、サークル感覚で楽しくやりたい選手までが混在する。少し特殊な団体である。教育学部体育学科があるため、国立大学ではあっても、教員を目指す競技力の高い選手が入ってくる。そもそも個人競技である上に、各自の目標に大きな差が出やすい環境であるため、部を一つの方向に向かせるというのは非常に難しい。事実、私が入部したころの雰囲気は、好き好きに練習し、「部として大事をなそう」という雰囲気はなかった。だからこそ、1年間の浪人というブランク明けの私も入りやすい雰囲気だったのだが。
そんな陸上部を一つにまとめ、勝つ集団へ変貌させようとしていたのが徳永剛さんだった。徳永さんは私と同じく浪人を経験しながらも、陸上への高い意識と向上心を持ち、それでいてユーモアにあふれた魅力的な人だった。大学の側にある行きつけのファミレスで食事を終えたかと思うと、先輩に電話をかけて「ごはん食べに行きましょう」と誘い、すべての支払いをさせる「賢さ」も持ち合わせた人だった。
徳永さんの“改革”
横国大陸上部は秋に代替わりする。主将を含めた幹部は毎年、2年生から選ばれる。徳永さんも2年生で主将になると、部としての明確な目標を掲げた。さらに全体練習への参加を基本的に義務化した。いままでの自由な空気を一変させ、部員に意識変革を求めた。
そもそも多くの部員が陸上のために大学に通っているわけではないのだから、人によっては耐え難いものだったかもしれない。ある意味自由を奪われるような“改革”だったのだから。しかし状況を一変させるには、大きく舵を切らねばならないときがあると思う。反発があることは徳永さん自身も分かっていただろうし、事実「やりすぎだ」という声もあった。それでも「部をよくしたい、強くしたい」という思いで行動しているのが誰にでも伝わる人柄だったので、部員の意識は徐々に徐々に変わっていった。
あるとき徳永さんは「一人で何かを達成してうれしいか? 俺は団体種目のリレーはもちろん、個人種目でいい結果が出たときでも、一緒に喜びあえる人がいるからうれしい」と言った。その考えが変革のベースにあったのだと思うし、こういう思いを持った人だからこそ、急激な変化であっても、みなついていったのだと思う。私もその一人であった。
伊藤先生のためにもいい結果を
そんな素晴らしい先輩に加え、私には伊藤信之先生もいた。
スポーツをするからには、最低限の理論は学ぶべきだと思う。一方で私は理論そのものより、大事なのは理論や自分の選んだ練習を信じることだと思っていた。正直、誰にでも当てはまる理論などないし、練習に迷いがあっては質が低下する。体格や筋肉の質、柔軟性など一人ひとり基本的な要素が違うにもかかわらず、同じ理論や練習方法を選手に押し付けるのは間違いだと思う。
この点において、伊藤先生は私にとって最高の指導者であった。知識が豊富で引き出しの多い人だが、決して理論や練習方法を押し付けることはなかった。あくまで選手の自主性を重んじてくれたし、不安や疑問をぶつけると、しっかり答えてくれる。ぐいぐいと引っ張る指導者、理論を押し付ける指導者が性に合う人もいるだろうが、私は伊藤先生の指導法が合っていたし、だからこそ伊藤先生のためにもいい結果を出したいと思うようになった。
初のインカレは100m準決勝で敗退
その後、私は偉大な先輩から主将を引継ぎ、3年生になった。春先の記録会でインカレの参加標準記録を突破していたので、照準は初出場となるインカレに置いた。関東インカレは決して満足いくものではなかったが、100mで5位に入り、一定の手応えはあった。
そしてインカレには絶好調で臨むことができ、予選を通過して準決勝に進出。16人で競う準決勝となると、周りは陸上専門誌の誌面をにぎわすような有名選手や強豪私立大学のトップ選手ばかり。国立大学の選手は私だけだった。不安でダークサイドに落ちかけていた。
「ようやく浪人生として1年以上貯めこんだ負のエネルギーをぶつけるときがきた!! 」。意気込みとは裏腹に、ダークサイドに落ちた私は、まあそれ以前に実力不足で、準決勝敗退となった。それでも最終学年になる前に目標とするレベルを直に体験できたのは、大きな収穫になった。