日大入学、まもなく地獄 田坂友暁・2
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元日本大学水泳部の田坂友暁さん(38)の青春、シリーズ2回目です。
最初で最後の「日本選手権」表彰台
紆余曲折を経て念願の日大に入学した私のデビュー戦は、1999年4月の日本短水路選手権だった。
当時は4月に25mプールでの日本短水路選手権があり、6月に日本選手権兼日本代表選考会があった。4年に一度、オリンピックイヤーだけ日本選手権が4月になり、日本短水路は2月に開催されていた。その日本短水路直前に日大の寮に入っていた私は、その先4年間、一度も似合うと言われなかったピンクのジャージを身にまとい、気分をたかぶらせていたのを覚えている。
正直なところ、私は自信に満ちあふれていた。高校最後の大会となった全国JO杯ジュニアオリンピック春季大会では、男子200mバタフライで優勝、100mバタフライで2位、100m自由形で3位という好成績を残せていたし、自分が得意とする短水路での大会だったからだ。
そして、デビュー戦は上々の結果だった。200mバタフライは5位だったが、100mバタフライでは3位で表彰台に立った。「日本選手権」と名のつく大会での、初めての表彰台だ。舞い上がってしまった私は、表彰台からの景色をまったく覚えていない。先に言ってしまうと、「日本選手権」での表彰台はこれが最初で最後だった。多くの人に迷惑をかけてまで入学した日大だ。自分が頑張ることで少しでも恩が返せるのなら、という強い気持ちがあったことも、この大会で記録を伸ばせた要因の一つになっていたと思う。
残念ながら、この大会で選考されたユニバーシアードの代表には入れなかった。それでも6月の日本選手権、そして夏のインカレに向けた最高のスタートを切れた……はずだった。
味わったことのない激痛
それは、突然にやってきた。日本短水路選手権から1、2週間後だっただろうか。朝、目が覚めるとまったく身体が動かない。「あれ? 」と上半身を起こそうと思ったら、腰に味わったことがないほどの激痛が走った。
高校時代から肩は常に亜脱臼ぎみだったので、トレーナーさんと一緒に体の使い方やケア、予防のトレーニングなどに取り組んできた。腰に痛みが出るとは、思ってもみなかった。寝返りすら打てないのだから、その日は授業にも練習にも行けなかった。
ぎっくり腰の症状は知っていた。その痛みと違うのは理解できた。その後の検査でも、骨に異常はない。神経にも異常はない。実はいまだに、自分の腰痛の原因がどこにあるのか、はっきりしていない。スポーツライターとして40歳を目の前にしたいまも、1、2年に一度のペースで動けないほどの腰痛が襲ってくる。あるとき外せない取材前に腰痛になったことがある。立っているだけで足が震えるほどだったため、記者さんから「生まれたての子鹿みたいですよ」と笑われた。本人はまったく笑えないのに……。
信じてもらえないかもしれないが、一番つらいのは靴下を履くときの痛みである。座って膝を曲げるまでは、時間をかければできる。だが、つま先を靴下に入れたあと、まったく力が入らないのだ。周りから見れば靴下をつま先にかけた状態で止まっているだけなので、「それ、絶対うそだろ!! 」と、先輩たちにからかわれた。当の本人は、その言葉すら耳に入らない。本当に痛くて、手を戻すも地獄、進めるも地獄。というより、戻すことも進むこともできないのだから、どうしようもない。
一生付き合うことになったこの腰痛は、まさに私が飛ぶ鳥を落とす勢いで記録を伸ばしていたタイミングで訪れ、私の勢いを完全に落としてしまったのである。