応援

連載:私の4years.

ついに現れた女性ファン 元早稲田大応援部・前澤智9

箱根の往路ゴール前の沿道で、応援開始前に待機する前澤さん(手前左)

全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元早稲田大学応援部主務の前澤智さん(48)の青春、シリーズ9回目です。

後にも先にも唯一のファン

3年生の12月、先輩が引退して私は応援部内で最上級生となり、主務の役職に就いた。主将を支え、部長や監督ら指導者、OB・OGの組織、大学内のほかの部との連絡などを一手に請け負う多忙な日々が始まった。一方でこのころから、私の身の回りにある変化が起きていた。私を応援してくれる女性、いわゆる「ファン」の出現だった。

OBから聞いた話によると、1980年代ごろは高田馬場から早大までの「早稲田通り」をリーダー部員が歩いていると、途中でファンが何人も待っていて、声をかけられることがあったそうだ。私の現役時代はもうそんな現象はなかったが、それでも応援部員に熱い視線を送る学生もいたようだ。私のファンは早大の1学年後輩だと、友人から聞いた。後にも先にも、そんな人が現れたのはこのころだけ。部活動中も大学内を歩いているときも、この人の存在が常に気になっていた。

風呂に瀬古コーチ

主務となって最初の応援活動は箱根駅伝だった。東京・大手町の沿道で応援をして1区の選手を見送った後、バスで往路ゴールの箱根へ移動。再び沿道で応援しながら、5区の選手を迎える。翌日の復路も同様に、箱根で応援をしたあとにバスで大手町に戻り、10区のアンカーを迎える。

93年1月の第69回大会、早大には私と同じ3年生に「三羽烏」と呼ばれた武井隆次(元エスビー食品監督)、櫛部静二(現城西大監督)、花田勝彦(現GMOアスリーツ監督)、1年生には大型新人の渡辺康幸(現住友電工監督)がいた。

往路は櫛部、渡辺、花田らが実力を発揮し、7年ぶりの往路優勝を果たした。応援を終えて宿舎の大浴場に入ると、早大を指導していた瀬古利彦コーチ(現日本陸上競技連盟・マラソン強化戦略プロジェクトリーダー)とばったり会った。当時、応援部は早大競走部と同じ宿に泊まっていた。テレビでしか見たことのなかった大先輩に一瞬緊張したが、瀬古さんは、私たちが応援部員だと分かると、軽妙なオヤジギャグを口にしてねぎらってくれた。瀬古コーチは復路にも自信を示していた。翌日、早大は武井の快走などで逃げきり、8年ぶりの総合優勝。レース後は大手町で競走部員らとともに校歌、応援歌を歌った。あの光景はいまでも頭に思い浮かぶ。

箱根で早大が総合優勝した後、学生やOB・OGらに挨拶する早大の小山宙丸総長(故人)が使う拡声機を持つ前澤さん(中央)

全国デビュー

応援部の最上級生のスタートは上々だった。春になり、東京六大学野球のリーグ戦開幕が近づいたころには、雑誌に登場させていただく機会にも恵まれた。あの『週刊ベースボール』の大学野球特集号の企画で、スポーツ番組にも出ていた女性キャスターの取材を受け、同誌に3ページの記事が掲載された。私の写真もしっかり載って「全国区デビュー」した。

しかし、春のリーグ戦期間中に、一気に気持ちの落ち込む事件が起きた。早大を含む数校の応援部・団の間で、応援活動を巡るもめごとが発生し、東京六大学応援団連盟内の大きな問題となった。それが一部全国紙とスポーツ紙で報道される事態に。記事を見てビビってしまった私は神宮球場に向かう足がすくんだ。部長や監督、同期の部員らが他校との関係改善のために奔走したが、私はあまり力になれなかった。

この一件が落ち着いて気持ちが持ち直すには、夏合宿を経て、秋リーグ戦の開幕まで待たなければならなかった(注: 現在の連盟内の各校応援団・部は、指導者らのサポートの下で友好的に交流、活動している)。

私の4years.

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