過酷な日々は六本木の夜に溶け 元早稲田大応援部・前澤智7
全国には20万人の大学生アスリートがいます。彼ら、彼女らは周りで支えてくれる人と力を合わせ、思い思いの努力を重ねています。人知れずそんな4年間をすごした方々に、当時を振り返っていただく「私の4years.」。元早稲田大学応援部主務の前澤智さん(48)の青春、シリーズ7回目です。
角刈りからアイパーへ
晴れて3年生になった私は「副務」という役職についた。応援部では部全体をまとめる主将、主務を筆頭に、さまざまな役職がある。例えば、校旗を管理する「旗手」、吹奏楽団の演奏をまとめる「指揮」、チアリーダーのステージの企画構成の責任者など。3年生はその補佐役となる。3、4年生も全員が応援活動をする一方で、担当分野を中心に部の運営を担う。
副務は4年生の主務(マネージャー)を支える立場で、通称「サブマネ」。主務は大学内のほかのスポーツ部、大学当局、部のOB・OG組織などとのさまざまな連絡、交渉の窓口となり、部全体の会計を管理する「金庫番」でもあった。サブマネも社会人と接することが多く、お金を取り扱うことも多かったため、アタッシュケースを持つのが慣例。私も先輩から黒皮製のものを譲り受け、自分の名刺や電卓を入れて毎日持ち歩いた。
学生服にアタッシュケースを持ち、ビジネスマン風にも見えるいでたち。さらに3年生となり、角刈り以外も許されるようになった髪形にも凝った。硬派に見える「アイパー」に挑戦したのだ。アイパーはパーマの一種で、平らなコテを使い、オールバック風に固定する髪形。著名人で言えば、在りし日の菅原文太氏や横山やすし氏のような雰囲気だった。
ネオンきらめく夜は更け
サブマネの出番として多かったのが、早大の卒業生が集う「稲門会(とうもんかい)」のパーティー。稲門会は県や市などの地域、卒業年次、企業や団体といった単位別の卒業生の親睦組織で、海外にもある。パーティーの最後に、校歌、応援歌を披露して盛り上げるのが応援部の役割だった。参加部員は、リーダー、チアリーダーが数人ずつ。演奏はカセットテープか、15人ほどの吹奏楽団による生演奏かの、どちらかだった。
サブマネは当時、稲門会のパーティーにはほぼ参加した。稲門会側の担当者と参加する部員数、会場の広さ、校歌・応援歌ステージの内容などについて、事前に打ち合わせをする。卒業生の結婚披露宴を含め社会人の宴会に参加する場合は謝礼をいただき、応援活動を支える重要な資金として使わせていただいた。このため、宴会参加は我々にとって重要な「営業」でもあった。
数多く参加した稲門会で、最も「おいしかった」と記憶に残っているのが、ある大手企業の稲門会だった。大きな会場で参加社員が多く、盛況で終わった。終了後、その企業で働く早大のスポーツ部OBから二次会に誘っていただいた。
向かった先は六本木。六本木といえば野球の早慶戦前の練習で、早大から慶大の三田キャンパスまでの約8kmを往復する「マラソン」。真っ昼間に声をあげながら走りすぎたことしかなかった街だった。中野駅近くの6畳風呂なしのアパートで暮らし、飲食は早大付近か高田馬場という生活だった私にとって、夜の六本木はネオンがまばゆかった。
二次会の店は豪華絢爛(けんらん)という表現がふさわしい雰囲気で、ニューハーフの従業員にもてなされ、楽しいショーもあった。すでに21歳だった私もOBの方々とともにニューハーフの話術を楽しみながら、お酒を少し飲ませていただいた。人生初の豪華な体験だった。
ほろ酔い気分でゴージャスな雰囲気に浸っていると、つらかった下級生時代のさまざまな場面が思い浮かんだ。「耐えてきた甲斐(かい)があった」。ここまでの過酷な日々が、六本木の夜に溶けていくようだった。