水泳

連載:私の4years.

鳴り物入りで入学、スランプで絶望の淵に 元法政大水泳部・内田翔2

私の4years.
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法政大学に入ったころ(写真はすべて撮影・矢木隆晴)

連載「私の4years.」5人目は、元法政大学水泳部の内田翔さん(31)です。2008年の北京オリンピックに競泳男子の200m自由形と800mリレーで出場しました。2回目は法大入学後の“転落”について、本人が綴ります。

前回の記事「スーパースターの入学なり」はこちら

タイムがた落ち、破壊された自尊心

鳴り物入りで法政大学に入学すると、私は両親の目の届かない環境でカレッジライフを満喫していました。そんな私を待ち受けていたのは、予想外の厳しい現実でした。

9月のインカレは400m自由形で予選落ち。200m自由形では2位に入りましたが、タイムは高校生のときよりも悪かったのです。あれだけハードな練習をやっているにもかかわらず、自分でも信じられない結果に茫然自失です。凋落(ちょうらく)は止まりません。インカレ後にはさらにタイムが落ち、中学生のときよりも遅いタイムになりました。「俺はスーパースターだ」という自尊心は、見事なまでに破壊されてしまいました。

いい結果が出せなくなると、練習からも足が遠のきました。キャンパスから30分しか離れていないのに、このころからサボりぐせが出るようになりました。

本来ならば「なぜそうなってしまったのか」と、冷静で客観的な原因追求がなされるべきですが、自分に甘い性格が災いしました。自らの行いに目配りをすることなく、「敵なしの昇り龍なのだから何とかなる」という根拠のない自信で、スランプを脱せるはずだと思っていたのです。

生きていくのも嫌になる毎日

しかし、いくら練習を続けてもタイムはよくなりません。それどころか下降線をたどる一方で、ついには心理的な混乱を招いてしまいました。

練習は厳しかったが、とくに確固たる目標もなかった

「どうせもうダメなんだ」

これ以上ないくらいの精神的な落ち込みを生まれて初めて経験し、生きていくのも嫌になる毎日。駅のホームに立ったとき、赤信号で立ち止まったとき、ついつい「ここでつらい人生を終えられたら、どんなに楽だろうか」などと思ってしまうことが、何度もあったのです。

水泳をやめると決心、高崎で家族会議

そんなある日、大学からの帰り道。コンビニでおにぎりを買おうと思って母からもらったブランド物の財布の中をふと見ると、現金が12円しか入っておらず、妙に悲しくなりました。と同時に「俺は何やってんだろう。オリンピックに出たくてこれまで頑張ってきたのに」という気持ちがこみ上げてきました。子どものころから抱いていたオリンピック出場の夢が遠のいていき、生きていることに希望を見いだせずにいた私は、たまらず父に電話をかけ、こう切り出しました。

「オレ、水泳やめるね」

すると父はひとこと「いますぐ家に帰ってこい」と言いました。言われた通りにふるさとの群馬県高崎市に直行。電車の中で泣いたのを覚えています。

実家に戻ると、家族がみな、私を迎えてくれました。夕食をとり、一段落したところでこう言ってくれたのです。「いまはスランプかもしれないけど、水泳は好きなんでしょ? だったら心を入れ替えて、東京じゃなくて高崎でやってみたら? 」と。

タイムはどんどん落ちていった

そのとき、いろんな人たちの顔が思い浮かびました。高校まで育ててくれた恩師である小茂田猛コーチ。東京に移るとき、大したお礼をすることもなく飛び出していったことに、いまさらながら悔いる気持ちでした。そして、大学進学後の私を受け入れ、指導してくださったセントラルスポーツの鈴木陽二コーチと小島竜司コーチ。せっかく懇切丁寧に指導してくださっているのに、そこから去るのは申し訳ないという思いが込み上げてきました。

悔しくてあふれた涙

好きなことを続ける難しさ、素直になれずにいる葛藤から、黙りこみました。黙りこめば黙りこむほど、悔しくて涙があふれてきました。でも最終的には「水泳はやめたくない。水泳が好きなんだし、それにこうして応援してくれるみんなの喜ぶ顔も見たいし」と言ったことを覚えています。

こうして、それからは練習の拠点を高崎に移し、気分を一新して懸命に取り組もうと決意しました。

しかし、地元で再スタートを切るとしても、不義理を働いたままなので、小茂田コーチにもう一度指導してもらえるのかどうか分かりません。また、指導を依頼したのにもかかわらず、迷惑ばかりかけてしまったセントラルスポーツの鈴木コーチ、小島コーチにどう切り出せばいいのか、悩むばかりです。

そんなとき、両親のひとことで決心がつきました。

「一緒に謝りに行こう」

チャンスをくれた三人のコーチ

まずは鈴木コーチ、小島コーチに頭を下げに行き、迷惑をかけてしまったことのおわびをしました。怒られるのを覚悟していたのですが、自分の願いを受け入れてくれ、その上にこれ以上ないというくらいに励みになる言葉をいただきました。それはいまでも大切な宝物です。

そして小茂田コーチにも、無理を承知でお願いにうかがいました。直接連絡を取ることに踏み出せなかったので、同じスイミングスクールから法政大学水泳部に進まれた先輩に相談をして、小茂田コーチに私が戻ってきたことを伝えてもらいました。そしてその方から「自分の思いを伝えておいで」と言われ、小茂田コーチがいるスクールに馳せ参じ、わがままを申し上げました。すると寛大な対応をしていただき、再びコーチのもとで練習することになったのです。

このとき、すでに2007年5月。北京オリンピックの代表選考会まで1年を切っていました。覚悟を決めた「龍」は、ここから再び昇り始めるのです。

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