いろんな人に支えられて乗り越えた五輪代表選考会 元法政大水泳部・内田翔4
機は熟し、すべてが整いました。オリンピックイヤーになると「代表選考会には魔物がいる」なんて言葉をよく耳にしますが、実際のところ魔物なんていませんし、魔物をつくってしまうものがあるとしたら、それは選手個々の不安でしかありません。
選考会初日で五輪決められず、意気消沈
とはいえ、頭では理解していても、その状況に直面すると震えあがり、周りが見えなくなってしまいます。私もその状態に陥りました。
2008年4月、北京オリンピック代表選考会を兼ねた日本選手権の初日。400m自由形決勝のレースで、私は思うような泳ぎができず、3位に終わります。鍛錬して積み上げたものが一気に崩れ落ちたような気分になり、悔しさが込み上げてきて涙が止まりませんでした。すべてが終わったわけではないのに、「もう無理だ」と思ってしまう自分がいました。
意気消沈していた私に、小茂田猛コーチは「もう、やるしかなくなったな」という言葉をかけてきました。私にはまだ200mのレースが残っていました。泣いている場合ではなく、前を向かなければならないのです。
私の落ち込んだ気分を晴らすかのように、法政大学の先輩である末永雄太さんが100m平泳ぎで2位に入り、オリンピック出場を決めてくれました。このうえない勇気をもらったレースでした。
不安を消してくれたトレーナーの猪股さん
そして迎えた2日目の200m自由形予選と準決勝。順当に3日目にある決勝へと駒を進めました。泳ぎは悪くない、全身を流れる水の感覚も、とてもよい状態です。ただ、準決勝で思うようなタイムを出せなかったことで、一抹の不安を抱えていました。
私の不安をすぐ察知したのが、トレーナーの猪股伸晃さんです。猪股さんは青森県の出身で大学進学のため群馬に来られ、群馬県の代表選手として国体にも出場する一方、理学療法士として群馬の水泳界に貢献されていた方です。私自身も中学生のころから一緒に泳ぎ、アドバイスをいただいてました。私が高校3年生のとき、一緒に参加した岡山国体はいい思い出です。
200m自由形の準決勝が終わった夜、猪股さんがリラックスする音楽を流してくれました。「明日のレースの作戦を立てよう。ラスト75mから一気に勝負を仕掛けよう」という猪股さんの提案をいただきつつ、ほかの選手の戦略を思い描きました。「周りは絶対に前半から飛び出してくる」と予測しました。前半型ではない私に猪股さんは「前半はあまり離されないようについていく。いまの君は絶対にバテない、大丈夫」と言ってくれます。日ごろから冷静に物事を捉えてくれる方です。その日もいつもと変わらず、私が前向きになれるように接してくれたおかげで、不安は飛んでいきました。
ラストチャンスを前に異常な緊張
いよいよ勝負の日。午前中は会場で泳いだあと、ホテルへ戻り、横になって休憩しました。会場へ行く時間になりました。音楽を聞きながら会場へ向かうのですが、いままで体験したことがないほど体が震えました。手と足、そして体が震え、心音が聞こえます。異常なほどの緊張が私を襲いました。
ウォーミングアップを済ませ、レースを待っていたとき、法政大学水泳部の八塚明憲コーチ(現・監督)に「翔の好きなレースをしておいで」と言われ、勝負に挑むスイッチが入りました。八塚コーチは私が高校1年生のころから法政大学へ勧誘してくれて、私が思うように泳げなかった日々も、笑顔で背中を押してくれた方でした。
招集所へ行く前に、オリンピック出場を決めていた先輩の末永さんから「いちばんオリンピックに行きたい者が行くんだ。最後はその強い気持ちを前面に出してこい」と言っていただき、一気に緊張がほぐれ、集中力が高まりました。
「選手の入場です!!」という合図のもと、自分の泳ぐ2レーンへ向かいます。ジャージを脱ぎ、選手紹介が終わり、スタート台に上がります。
いちばん緊張するのは、スタート台で号砲を待っている時間だと言われていました。だから私はいつも、最後にスタート台に上がるようにしていました。
作戦通りに勝負、代表ゲット!!
いざ、スタートです。前半の100mは8人中8位でしたが、離されることなく折り返します。徐々に泳ぎのテンポとスピードを上げ、残り75mとなった時点で、作戦通り勝負に出ます。150mの最後のターンをして、爆発的なキックを打ち込みます。私は左呼吸のため、3~8レーンの選手の動向は分かりません。そんなことは関係ないとばかりにキックを強く打ち、オリンピックに出るんだという強い気持ちを出し、一意専心で泳ぎました。
タッチしてすぐに電光掲示板を見ると、2位。1位から4位までの選手の合計タイムが800mリレーの派遣標準記録を突破したため、夢だったオリンピックの出場権をつかみとりました。インタビューエリアではいろんな気持ちが込み上げ、自然と涙が出て、止めることができませんでした。
次の瞬間「翔!!」と大声で呼ばれました。声の主は小茂田コーチでした。『鬼の小茂田』と言われたコーチの目から涙がこぼれていて、人目をはばからず抱き合って泣いたことを思い出すと、いまでも目頭が熱くなります。
悩み抜いた時間も必要だった
レース後、会場の外に出ると、いつも通りに両親と妹が待っていてくれました。涙はなく、笑顔で迎えてくれました。何より驚いたのは、水泳仲間や高校の同級生たちが大勢で応援に来てくれていたこと。それから携帯電話が電話とメールで鳴りやまなかったことです。たくさんのメールの中に、大学のクラスメイトでいつも私を支えてくれた前原雅樹君から「おめでとう。今度は俺の番」という連絡が入っていました。彼はその後自分の夢をかなえ、有名アーティストのバックダンサーや俳優として頑張っています。
作戦を的中させた猪股さんとゆっくり話ができたのは、宿舎に戻ってからです。群馬に拠点を戻したときからの話や、200m自由形決勝のレースを振り返っていたとき、猪股さんの目から涙がこぼれていたように見えました。
私はたくさんの方に支えられ、子供のころ思い描いたオリンピック出場の夢をかなえられました。途中、夢をあきらめてしまおうかと落ち込んだ時期もありましたが、そうした過程も決して悔やんではいません。支えてくれる方々がいて成長できたんだと思いますし、悩んだ時間も必要だったのではないかと感じます。
昇り龍は夢をつかみ、世界選手権に最年少出場したころより天高く昇り、オリンピックの舞台に挑むのです。