ドイツ在住の夢追い人・中山イチローの「人生なんとかなってきた」#8中田英寿
ロサンゼルスでの3カ月間の“修行”から帰国してすぐにしたのは、サッカーの雑誌や本の読みあさりでした。近畿大学ではアメフトに転向しましたが、高校まではずっとサッカー。私はサッカーオタクだったのです。日本にまだプロリーグもなく、サッカーが現在のように注目されていなかった小学生のころから、雑誌を端から端まで読んだり、当時少なかったサッカー中継を録画し、実況や、解説の方の言葉を暗記するくらい何度も何度も繰り返し見るのが趣味でした。たった3カ月でしたが、サッカーの情報が入ってこない環境にいたので、飢えまくってたんです。
中田英寿に関わる仕事がしたい、とマネジメント会社に日参
とくに中田英寿選手の情報を追いかけていました。片や「世界最高峰のリーグで戦う若きプロサッカー選手」、片や「日本食レストランでひたすら天ぷらを揚げていた30歳手前の一般人」でしたが、中田選手が世界に飛び出し、世界の猛者たちと戦っている姿を自分と重ね合わせて、勝手に共感していました。
その勝手な共感がきっかけで、中田英寿選手に関わる仕事がしたいと心動かされました。調べてみると彼をマネジメントしている会社が東京にあることがわかりました。しかし、社員を募集している様子がありません。ある日、「直接行って頼んでみよう!」と、ロスの日本食レストランに突撃訪問したのと同じ手法が思いついてしまいました。
東京に住む親友宅と大学時代のチームメイト宅に合計約1カ月ほど泊めてもらい、中田選手の所属事務所に毎日のように履歴書を持って行きました。「給料はいりませんので、中田選手に携わる仕事をさせて下さい」とお願いしました。最初は門前払いでしたが、毎日のようにやってくる私を見かねて、ある日、一人の社員の方がじっくりと話を聞いてくれました。
さすがに、なんとかならなかった
社員の方からは、中田選手をサポートする仕事には英語かイタリア語は絶対に必要だし、給料なしでは東京で生活していけないよと優しく説きふせられ、最後には社長に手紙を書いてみたらどうだとアドバイスをもらい、事務所を後にしました。大阪に戻った後、思いを綴(つづ)った手紙を社長に送りましたが、願いはかないませんでした。中田選手にプラスになる要素が「給料はいらない」ということしかないのでは、さすがになんとかなりませんでした。
帰国後は社会人のクラブチーム「アズワンブラックイーグルス」に復帰し、再びアメフトを続けていたのですが、僕がアメリカに行ってる間に同じポジションに新たな選手が加入していました。その選手は甲南大学出身で1学年上の先輩だったのですが、僕の現状を気にかけてくれて「ヒマしてるんやったら、俺の仕事を手伝え!」と、僕を仕事場に連れ出してくれました。
そこで、新たな道が切り開かれることになります。
次回は仕事場での新たな出会いについて書きます。