初の早慶戦で大失敗、すべてをラグビーに捧げた 元慶應ラグビー部・和田拓3
連載「私の4years.」の8シリーズ目は、今年から慶應義塾體育會蹴球(ラグビー)部のBK(バックス)コーチとして後輩の指導にあたる和田拓(たく)さん(31)です。國學院久我山高(東京)から慶應に進学。卒業後はキヤノンイーグルスで主将も務めました。そんな和田さんが学生時代を振り返る5回の連載の3回目は、大学2年生のときに味わった大きな挫折と、そこからの日々についてです。
ラグビー人生で初めての長期離脱
大学2年目は、春の練習試合で全勝という最高のスタートを切りました。林雅人監督のもと、低いタックルと相手に走り勝つラグビーが実を結びつつあることを多くの選手が感じていたと思います。そんな中、私自身は大きな挫折を味わうことになりました。
夏合宿の練習試合で手を骨折。私のラグビー人生で初めての長期離脱を余儀なくされます。
9月から始まった公式戦の序盤は、スタンドから観戦することになりました。自分のけがはなかなか治らないのに、チームメートたちは練習や試合を通して成長していく。いままで経験したことのない、もどかしい時間がしばらく続きました。
それでもシーズン途中になんとか復帰し、小さいころから夢見ていた早慶戦のメンバーに選んでもらえました。ところが、そのあこがれの舞台で私はタックルミスを連発。敗戦につながる大失敗をしてしまいました。原因はフィジカル不足とメンタルの弱さ。2万人の大歓声を前に、自信をもったプレーがまったくできませんでした。試合後「恥ずかしいプレーをしてしまい、チームメートに合わせる顔がない」と、肩を落として帰ったのを覚えています。
その失敗を境にレギュラーから降格。監督にその事実を告げられたとき、どう立ち振る舞えばいいか分かりませんでした。
あきらめないことをチームメイトが教えてくれた
そんな失意の私を救ってくれたのは、またしてもチームメートでした。Cチーム以下の選手たちの試合には、公式戦メンバーに選ばれたいという一心で体を張ったタックルを繰り返す仲間たちの姿があったのです。Aチームにいた私よりも、ずっと試合に出る確率が低い選手たちが必死にプレーしている。リハビリ期間中に甘くなっていた私の取り組みを激しく後悔しましたし、「プレーするグレードなど関係ない。どの瞬間も全力で最後まであきらめずに戦わなければならない」と、私に気づかせてくれたのです。
一番足りなかったのは、熱量をもって取り組むことでした。言葉ではない「熱いタックル」というメッセージが、当時の私の心にはもっとも刺さりました。しかしレギュラー降格以降、シーズンの最終戦まで私が試合に出ることはありませんでした。
この悔しさを晴らすためには、自分の取り組みを根本的に変えなくてはいけないと考えました。翌年は春から体づくりのため、1日4食にして体重を増やし、オフの日にゴールキックの練習を1時間することを自らに課し、とにかくラグビーに費やす時間を増やしました。
必死に、貪欲に成長を求めた3年生の日々
オフなど1日もいらないという覚悟で、必死に練習を続けました。怠けそうになったときはラグビーノートに書いた前年の悔しさを読み返し、練習に臨むようにしていました。いまこうして振り返ってみると、1日が24時間では足りないほどに感じていましたし、大学生活で一番貪欲(どんよく)に成長を求めていたのは、この時期だったかもしれません。
ポジションチェンジも相まって、春のシーズンから調子がよく、3年生のときは全試合で先発出場を果たします。筋力量が増えて大きなけがもなく、チームも大学選手権ベスト4に進出。しかし準決勝で負け、またしても日本一には届かずにシーズンが終わりました。
大学生として日本一に挑戦できるチャンスはあと1年。4年生のラストシーズンで、私たちはいくつかの成果をあげます。次回はそのことと、私が出会った「大切な仲間」について書かせていただけたらと思います。