アメフト

連載:OL魂

日大・植原涼 宮崎からやってきたGKは、フェニックスのOLとして日本一になった

植原(左)のプレーは極めて基本に忠実だ(すべて撮影・北川直樹)

アメフト関東大学リーグ1部BIG8 第5節

11月2日@東京・駒場第二球技場
日大(5勝)49-13東海大(3勝2敗)

アメリカンフットボールの関東大学1部BIG8は11月2日、第5節の3試合があり、日大は東海大を下して開幕5連勝とした。日大が単独トップで、1敗の横浜国立大と桜美林大が追う展開になっている。日大のOL(オフェンスライン)のスターター5人のうち、一人だけ高校時代にアメフトをやっていなかった男がいる。しかも、元レシーバーだという。51番の植原涼(4年、宮崎日大)に注目した。

宮崎日大高ではGKの2番手

植原は身長178cm、体重105kgで、5人が並ぶOLのうち右のタックル(T)と呼ばれるポジションを担っている。これは日大のオフェンスの特徴だが、フィールド上の作戦会議にあたる「ハドル」が解けるとき、ほかのどのチームよりも元気に声を出し、手をたたいて跳ね上がり、各自のポジションに向かう。「よし、いくぞ」という思いが伝わってくる瞬間だ。
植原も1プレーごとに黒いグローブをつけた両手をたたき、オフェンスの最前線に出ていった。そして基本に忠実な動きから力強く相手をブロックし、1試合を通じて安定感のあるパスプロテクションを続けていた。それでも植原は試合後に言った。「どんな試合でも満足したことはないです。必ず細かいミスがありますから」。これだ。OLの鑑だ。

宮崎市内で生まれ育った。宮崎でいちばん好きな場所は青島の名所である「鬼の洗濯板」だ。「子どものころから、あれを見るのが好きでした」。かつてはサッカー少年だった。宮崎日大高校ではGKの2番手。サッカーに限界を感じ、「大学では日本一を目指したい」と思い始めていた。そんなとき、サッカー部の顧問の先生から「受けてみたらどうだ?」と、日大アメフト部のトライアウトを勧められた。アメフトのことなどまったく知らなかったが、キッカーというポジションなら自分のキック力が生かせると感じて、チャレンジした。高3の10月ごろに「合格」の通知があって、日大でアメフトを始めることに決めた。

高校まではアメフトについてほとんど何も知らなかった

20kg増え、2年生になるときWRからOLに

東京へやってきたころは身長177cm、体重74kgと細かった。「WR(ワイドレシーバー)やってみろ」と言われ、キッカーとWRの練習に入った。すぐにU19日本代表のトライアウトがあって、キッカーとして受けた。最初の選考は通ったが、次の段階で不合格となり、そこからはチームでもWRに専念するようになった。秋のリーグ戦が始まってもまったく試合には出られず、シーズンが終わった。日本一になりたくて日大でアメフトを始めたのに、チームはまさかの3勝4敗だった。最終戦の早稲田戦の3日後、コーチからOL転向を告げられた。このとき、体重は94kgまで増えていた。

4年生が引退し、チーム内では2年生になった。年が明け、内田正人監督が復帰。練習前に2500ydに及ぶ走り込みが始まった。毎日が苦しかったが、日本一になるために食らいついた。5月になるころ、体重は14kgも減って80kgになっていた。春の試合にはちょこちょことOLとして試合に出た。しかし秋のリーグ戦が始まると出番はなくなった。チームは3年ぶりの甲子園ボウル出場を決めた。

OLとして初の先発出場が甲子園ボウル

人生、何が起こるか分からない。
甲子園ボウルを前にした練習で、同じポジションの4年生がけが。きた。これまでOLとしてリーグ戦のフィールドにも立ったことがない植原が、関西学院大との甲子園ボウルにスターターで出ることになった。

試合の前日、甲子園球場で練習した。「いい感じのグラウンドだなあと思いました。こんなところでできるんだ、って。でも緊張はしなかった。びっくりするぐらい、緊張しなかったんです」。その夜、体重を計ったら88kgしかなかった。「90はあると思ってたんですけどね」と苦笑い。とても大学日本一を争うチームのOLとは思えない細身で、甲子園のフィールドに立った。

プレー直前に周囲を観察し、起こりそうな出来事を想定する

青いヤツらを前にしても緊張はしなかった。決戦が始まった。いままでコーチにしつこく言われてきたことを意識してプレーしたら、面白いように押せた。「自分よりずっとデカい相手なのに、簡単にブロックできたんです」。夢中でプレーし続けたら、勝っていた。日大フェニックスにとって27年ぶりの大学日本一。OLを始めて1年の男が、その復活劇を支えていた。「いままでで一番いいプレーができた試合でした」。いい笑顔でそう振り返った。

大学進学に当たってテーマにした「日本一」にたどり着いた。「来年も続けて日本一になったろう」。心から、そう誓った。
しかし、植原が2度と甲子園の芝を踏むことはなくなってしまった。
例の一件で3年生のシーズンがなくなり、今シーズンはどれだけ強くなっても甲子園ボウルには届かない。

甲子園ボウルへの道がなくなっても

そう決まった当初は、精神的にキツかった。でも、やめようとは思わなかった。
「甲子園ボウルの舞台に立てた2年生は少なかったから、日本一になった経験を生かさないともったいないと思いました。それに、宮崎からフェニックスに来たから僕が日本一になれた。チームに恩返しもしたかった。後輩たちが来年の甲子園ボウルを目指せるチャンスをつくってあげたかったです」。人間に芯があって、優しい。OLの中のOLだ。

関東1部BIG8のリーグ戦も残り2試合。「ここからが一番キツい試合です。今日も後半はよくなかったし、フェニックスのフットボールが見せられるように、もっとハードにやっていきたいです」。17日にもリーグ優勝と1部TOP8昇格の決まる可能性がある。

後輩たちが甲子園ボウルに出たら、駆けつける。「出たくなるでしょうね(笑)」

改めて、2年前のシーズンについて、いまどう思っているか尋ねた。「練習はキツいし、しんどかったけど、それがいい結果として出た。やっただけ結果に出た。本当にうれしかったです。それに、最後に厳しい監督やコーチがほめてくれた。感謝しまくってます」

WRを続けていれば、派手な活躍ができたかもしれない。いかんせんOLは基本的にボールに触れられない。植原の感じるOLとしての喜びはどんなものなのだろう? 「自分のブロックで仲間が走ってタッチダウンして、喜んでる姿を見るのがうれしい」。そのうえで「ナイスブロック」って言ってくれたら、もっとうれしいよね? 「はい」。笑顔がとろけた。

社会人になっても日本一になりたくて、アメフトを続けるつもりだ。もちろん、OLとしてやっていく。そしてずっと植原の胸には、2017年の甲子園ボウルの感動がある。

OL魂

in Additionあわせて読みたい