関学で年下の「師匠」と出会い、上向いた野球人生 阪神タイガース・近本光司2
「プロが語る4years.」の第7弾はプロ野球・阪神タイガースの近本光司(25)。4回の連載の2回目です。プロになろうとは考えたこともなかった近本ですが、関西学院大学の野球部で「師匠」と呼ぶ後輩と出会い、考えが変わっていきます。
けがからの復活、「師匠」に託した
関学での野球生活は、初めは輝かしいものではなかった。1回生の6月に投げ込みすぎて右肘(ひじ)を痛めた。ずっと肘をかばっていたことで、肩まで痛くなってしまった。けがが続いて、練習は走り込みばかり。退屈な日々を送っていた。2回生になってまたけがをしてしまったとき、1回生の植松弘樹さん(現・関西学院大学職員)と出会った。植松さんは当時はキャッチャーだったが、後に学生コーチに。「師匠」と仰ぐ植松さんとの出会いが、近本の野球人生を大きく変えていく。
植松さんは香川県立小豆島高校(現・小豆島中央高校)の出身。「エンジョイ・ベースボール」をモットーに、少ない部員数で甲子園を目指していた。科学的な理論に基づく「考える野球」を実践してきた植松さんは、けがの治療やトレーニング法にも精通していた。近本はけがからの復活に向けて、この後輩に「一緒につきあってくれへん?」と頼んだ。二人三脚の日々が始まった。
これからどういうプレーヤーになっていくのか。周囲からも「野手をやれ」と言われ、近本の中にも「野手でいこう」という気持ちが明確になっていった。植松さんは「野球を100%思い切り楽しめるということを考えると、野手に転向するのがいいと思いました。楽しめるポジションを考えた結果が外野でした」。
近本にピッチャーと野手のどちらが楽しいかと聞くと、こう返した。「(勝敗に対する)責任は、ピッチャーがだいたい9割くらい関係します。(ピッチャーは)どうしても自分が悪いときに負ける。バッターは自分が悪いときに負けるかと言われると、そうじゃないんで。そういった意味で野球を純粋に楽しめるのはバッターだと思います」。2回生の秋に野手転向を決めた。復帰への道はまず、肩や背中のストレッチからだった。
自主練で変わり種のトレーニングに没頭
植松さんは近本のことを「やると決めたらとことんやる人」と評する。全体練習後に、誰もいないグラウンドで黙々と自主練習に取り組んだ。近本自身が「自主練は好きだけど、全体練は嫌い」と言うほどだ。科学的に効果も実証されている加圧トレーニングや、プライオメトリックトレーニングに取り組んだ。膝(ひざ)を曲げずにハードルを跳んだり、細いベルト状のラインの上を歩いたり跳んだりするスラックラインなど、一風変わった練習もした。周囲からは「変態ちゃうか」「練習しすぎや」などと言われた。
近本は、そんな言葉をまったく気にしなかった。「自主練の影響は大きかったと思います。植松が変わってるのもあって、変わったメニューが多かったですね。いまでも(当時の)トレーニングをやりたいと思うことはあります」
自慢の足も「師匠」とともに磨いた。もともと足は速かったが、盗塁が得意というわけではなかった。近本自身も「大学の途中までは、ただ普通に足が速い選手だったんですが、植松とトレーニングしてスピードが磨かれました。一緒に練習していって一番伸びた(部分)かなと思う」と語る。
大学時代はピッチャーの配球を読むというより、とにかく盗塁を「試みる」のを大事にした。先に頭を動かし、前傾姿勢からこけるぐらいの勢いでスタート。2、3歩でトップスピードに乗るような形で盗塁する。3回生の春、植松さんとともに目標を立てた。2007年春に関学の荻野貴司(現・千葉ロッテマリーンズ)が決めた関西学生野球1シーズン最多記録の17盗塁を超えることだった。
野手転向から1年以内でベストナイン
2回生の秋に代走でリーグ戦デビューを果たした近本は、3回生の春にはスタメンに定着した。打率3割7分9厘で初のベストナインに選ばれた。目標の17盗塁は超えられなかったが(注:2019年秋のシーズンまで塗り替えられていない)、10盗塁をマークした。秋には相手が警戒を強め、「近本シフト」が敷かれた。野手転向から1年足らずでのベストナインは快挙だ。
「たまたまっすね、たまたま。たまたまっすね。僕、あまり実力でとれたとか思わないんですよね。そのときの流れであったり、時期次第だったりって思うんです。だから、僕はついてると思います」。近本は謙遜するが、二人三脚でのトレーニングが実を結んだ瞬間だった。植松さんは「2年間バットを振ってない選手が野手になるのは勇気がいることです。誰にでもできることではない」と、尊敬の念を込める。
野手への転向で才能が開花し、ようやく扉が開けた。これから順風満帆な野球人生が始まるかと思われた。しかし、野球の神様はまたしても彼に試練を与える。