大学サッカー

連載:サッカー応援団長・岩政大樹コラム

選手の終わりですべてを失っていないか 「プロティアンキャリア」という考え方

岩政さんは「プロサッカー選手」としての最後の2年間、社会人リーグ・東京ユナイテッドFCでプレーを続けながら指導や解説、執筆などをしていた(撮影・小澤達也)

先日、あるイベントで法政大学キャリアデザイン学部の田中研之輔教授とご一緒させていただきました。そのイベントの中で「プロティアンキャリア」という言葉を教えていただきました。「プロティアン」とは「変幻自在」という意味で、これからの時代により求められるキャリアの考え方を「変幻自在のキャリア=プロティアンキャリア」と表現されていました。なるほど、と思いました。

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「デュアルキャリア」の感覚はなかった

私は「ファーストキャリア→セカンドキャリア」と区切る考え方をそもそも疑問に思っていたので、「プロサッカー選手」としての最後の2年間は、社会人リーグでプレーを続けながら指導や解説、執筆などをしていました。いわゆる“のりしろ”みたいなものをつけた上で「プロサッカー選手」をやめたのです。

そのまま指導や解説、執筆を続けながら1年ちょっとを過ごしてきましたが、来年からはまたそれぞれの比重を変化させながら次のキャリアをスタートさせます。と言っても、描いているのはせいぜい4~5年先まで。その先は人生の流れや世の中の流れを見ながら考えていこうと思っています。

こうした生き方を考えたのは、2016年にファジアーノ岡山を離れることを決めてからです。そのときはなんとなく、「プロサッカー選手」をやめるのは違う気がした。かと言って、「Jリーガー」としてやりたいことはもうありませんでした。そこで思いついたのが“のりしろ”をつけた数年間をつくることでした。

これを人は「デュアルキャリア」と呼びました。私は「まあそうなのだろう」と思いながら、どうもしっくりこなかった。別に「2つを走らせている」という感覚はなく、ただ単に「いまやるべきことがこれ」である気がしただけだったからでしょう。

だから「プロティアンキャリア」と聞くとすごく納得感がありました。変幻自在なキャリア。そう。私が歩んでいるのはそうした人生なのだと思いました。

私は“たまたま”が重なって、このような人生を歩むことになりました。大学に進学したときに志望していた教師の道を歩んでいたら、こうしたキャリアにはならなかったでしょう。いや、ちょっと変わった僕だから分からんな(笑)。

「自分にはサッカーしかできない」と取り憑かれていないか

私は幸運にも、こうした生き方を見つけていく時間を得ることができ、「プロサッカー選手」をやめた後も、なんら変わらぬ気持ちで日々を過ごすことができています。仕事の内容こそ大きく変わりましたが、それ以外は何も変わりません。仕事への取り組み方も考え方も物事の捉え方も。「プロサッカー選手」をやめてからの方が、むしろ得意なことをやれている感覚さえあって楽しいほどです。

2016年12月、ファジアーノ岡山で戦っていた岩政さん(右から2人目)はプレーオフ決勝でセレッソ大阪に敗れてJ1昇格を逃し、そのシーズンをもって岡山を退団した(撮影・小林一茂)

しかし、多くの「プロサッカー選手」はこうはいかないとよく聞きます。「プロサッカー選手」としてのキャリアを終えると“人生のすべて”を失ったようにさえなり、何をしていいか分からず、とりあえず知り合いの伝手(つて)を頼りに仕事を探します。そして、「自分にはサッカーしかできない」という考えに取り憑かれてしまい、結局、狭い可能性の中で残りの人生を決めてしまうのです。

この考え方は大きく転換していくべきときを迎えていると思います。私はサッカーから学んだことで人生を生きています。同じ世の中での出来事であるならば、それはどんなことにもつながるはずです。ただ、それをどう変換していけば、サッカー以外の場所でも生かせるのか。ここを整理して伝えることは必要だと思います。

21歳で鹿島から契約満了を告げられ宮内が選んだ道

「プロティアン」は「やっと出会えた」と感じた言葉でした。そして、田中教授のお名前を私は実はずっと前から知っていて、教授も「やっとお会いできた」お方だったのです。というのも、田中教授の研究室をステップにキャリアを変換して転換できた元「プロサッカー選手」を私はよく知っていたからです。鹿島アントラーズに数年間だけ所属していた宮内龍汰(26)という男です。

“ミヤ”こと宮内は鹿島ユースを卒業後、2012年にトップチームに昇格しました。運動量があり、ハードワークできる中盤の選手は鹿島の中で異色でしたから、期待はされていたと思いますが、当時の鹿島には彼が入り込むスペースはありませんでした。当初結ばれた3年の契約を終えると、当然のように契約満了を告げられました。

そのときまだ21歳の若者です。サッカーばかりをして育ってきた男の未来に、急に遮断機が下されて、彼は路頭に迷いました。トライアウトを受けてみたもののチームは見つからず。私はそのころ、相談を受けました。

私は発想の転換を勧めました。「サッカーをすることだけ」に固執する必要などない。彼はまだ若かったし、「プロサッカー選手」として“少しでも長く”に拘(こだわ)っているより、別の道、「例えば大学にいってみるのはどうか」と話をしたのです。

大学は岩政さんが宮内にした一つの提案。それをいまにつなげたのは宮内自身の力だ(撮影・小澤達也)

その話をしたときはピンときていなかったように感じました。しかし少し経ったころ、「法政大学のキャリアデザイン学部に入学することにした」という報告を受けました。決断に至ったのはおそらくご両親の影響が大きかったと思います。私はヒントを与えたに過ぎません。しかし、ミヤは出会いに恵まれました。

そこで出会ったのが田中教授だったのです。田中教授の元、サッカーで培ってきた真っすぐさや粘り強さを、社会の中で生かしていく術や言葉に変換していく日々を送ったミヤは、まるで別人になりました。いま彼は、彼が志望した超一流企業でバリバリ働いています。

ここから見える示唆は何でしょうか。少しだけ考えてみてください。答えは人それぞれでいいと思います。私はただ、ミヤを通して気になっていた方にお会いできたうれしさ。「プロティアン」という言葉に出会えたうれしさ。そして、ミヤを思い出した懐かしさをここに記したく、文章にしてみました。

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