「関東で最も練習がきつい」と聞いて土浦日大高へ 岡田優介2
連載「プロが語る4years.」から男子プロバスケットボールのBリーグ「京都ハンナリーズ」でプレーする岡田優介(35)です。岡田は青山学院大を卒業後、現役選手のみならず会計士として、また3x3(スリー・エックス・スリー)のプロチーム「TOKYO DIME」の共同オーナーなどとしても活躍しています。4回の連載の2回目は、土浦日大高校(茨城)時代についてです。
「バスケで日本一になりたい」の一心で
教室の中ではテストの点数をクラスメートと競い、ストリートバスケでは大人を相手にしてもひるまない。そんな小中学校時代を過ごした岡田には、高校進学でも“らしさ”が垣間見える。
「『バスケで日本一になりたい』という思いがありました。いろんな高校に見学に行っては練習に参加して決めていきました」。ここまでなら普通の中学生らしいし、関東屈指の強豪校である土浦日大を選んだことも理解できる。岡田らしいのは、「『関東で最も練習がきつい』と言われていたので」という理由でチームを選択した点だ。
学校での成績も優秀だった岡田には、早稲田実業学校高等部(東京)からも推薦入学の話があったという。当時、早稲田大の最寄りである早稲田駅近くで暮らしていた。もしかしたら早稲田実業に進学した方が、今後を考えたときにいちばんスムーズな選択になり得たかもしれない。それでもあえてその道を選ばなかった。
「『早実にいけ』と周囲には言われました。そのまま進めば早稲田にもいけるだろうし、バスケもなかなか強いからいいじゃないか、って。でも、それに反抗しました(笑)。勉強はいつでもできるし、いまはバスケをやりたい、バスケで日本一を目指せる環境にいきたいんだ、と。『勉強だって自分でちゃんとやるから黙って見ていてよ』という感じでした。何事も自分でやりたいという、生意気な中学生でしたね」
肺結核で入院、その間に独学で勉強を“修了”
バスケ同様に手を抜かないことを宣言した勉強に、思わぬ形で懸命に取り組むことになった。意気揚々と土浦日大の門をくぐった岡田を思いもしないアクシデントが襲ったからだ。入学直後の5月の定期健診で、肺結核と診断されてしまった。
現代において肺結核の罹患者は大幅に減少しているが、かつては「国民病」とも呼ばれていた。そんな病気に自分がかかってしまうとは思ってもいなかった。岡田にとって悪夢だったのは、入院を余儀なくされることでバスケができなくなることだった。
「バスケ推薦で入ったのに、1年生のいちばん大事な時期を棒に振りました。ずっとうまくやってきて、『さあ、日本一を目指すぞ!』と思って親元離れて寮生活を始めた矢先だったので、ショックでしたね。バスケができなくなるのは初めてだったので、大きな経験でした」
しかしここでも、持ち前のポジティブさを発揮する。バスケができない時間を最大限に有効活用しようと考え、手を伸ばしたのは教科書。「入院は決まってしまったし、体を動かせないけど、自分にいまできることを全力でやろうと思って。数学、英語、国語……。全部の教科書を一通り終わらせちゃおうと思ったんです。そうしたら(学校に)戻ったときに、バスケに100%集中できると単純に考えて」
入院してから1カ月の内に、1年生で学ぶすべての教科を独学で“修了”してしまったという。「僕にとって学校での勉強はすべて“復習”になりました。授業を聞くだけで『ああ、知っている』という感じで、そんなにパワーをかけなくてもできるようになっていました」。いつしか「勉強を教えてほしい」と友達から請われるようになり、「勉強を教える側に回ると、自分の中でも学んだことが整理されていくんです。教えるということは、自分の中でちゃんと理解できていないといけないので。さらに伝える力がついたり、自動的にまた別のスキルも学んでいきました」と、自分の新しい能力も引き出していった。
強豪校ならではの厳しさ、その中でも“自分”を強く
リハビリも経て1年生の11月には部活に復帰。「統率が取れたディフェンスシステムなどは、高校になってから初めて学びましたね」と、本格的にバスケを学び始めた。だが、岡田が高校時代に身につけたいちばんの財産は「精神的な強さ」だと言う。
土浦日大は関東随一の強豪校だけあって、その門を叩くのは中学時代まで地元のスーパースターだった選手ばかりだ。そんな自信満々の俊才たちであっても、高いレベルでもまれていく内に「牙が抜かれていく」のだという。それが強豪校であり続ける理由でもある。
厳しさを感じさせるのが、中学時代と段違いの強度の練習であり、チーム内の規律だった。「簡単に言うと軍隊というか、そのくらいの規律を求められました。当時は昔ながらの学校だったので、練習のきつさとは別の意味で、精神的に鍛えられる部分はありましたね。挨拶など、上下関係も異様に厳しいものでした」。それはストリートバスケにはない空気だった。
そうした環境の中では選手たちは自然と体が強(こわ)張り、萎縮してしまいがちになる。だが、岡田は自分の姿勢を変えなかった。「常に『やらされている練習ではない』と思っていました。きついメニューに萎縮しちゃう選手も多いんですが、僕の場合は『好きだからやっているんだ』というスタンスで一貫していました」
そうしたキャラクターもあってか、指導陣からはどんどん自分を出すように促された。「厳しいしよく怒られもしましたが、僕は『とにかくお前がやれ!』と指導をされました。『ボールがきたら責任を持って全部シュートを打つんだよ』というような。プロになるなどレベルが高くなると、遠慮して周りに合わせてしまい、エゴがどんどん削(そ)がれていくこともあります。だからそういう強いメンタリティをつけてもらったのはすごくよかったと思いますね」。強制されるでも、反発するでもなく、自分の道を歩み続けた。
3年生になると、キャプテンを任された。地元・茨城でインターハイが開かれ、総合開会式では選手宣誓の大役を務めた。「2万人ぐらいいる会場で前に立っての宣誓は、やはりすごく思い出に残っていますね」
地元ということで、試合ではほぼ満席に近い観客から応援を受けた。その声援も、受け取り方によってはプレッシャーになり得るが、岡田は「それも楽しんでいました」と力に変えた。プロになる精神的な素養も、このころから育まれていたのかもしれない。
しかし結果は準決勝敗退。高校最後のウインターカップはベスト8で終えた。日本一の夢は、大学での挑戦へ持ち越されることとなった。
◆下の画像バナーよりギフティングサービス「Unlim」を通して寄付ができます。