「あの1年目がいまの僕の始まり」青学大での苦悩を力に 安藤周人(下)
Bリーグ屈指の好シューターとして活躍し、名古屋ダイヤモンドドルフィンズのエースとしてチームを引っ張り、昨年秋にはついに日本代表に選出され、中国で行われたワールドカップに出場。大学卒業から3年のうちに目覚ましい活躍を挙げている安藤周人(しゅうと、25)の礎となっているのが、大学バスケットボールの名門・青山学院大で過ごした日々だ。そんな日々を振り返り、大学時代に安藤が学んだことを2回に亘(わた)って紹介する。
伸びる芽を見いだされ、毎日、練習後に3ポイントシュート
青学大入学前の3月初旬よりチームに合流した安藤は、けがの影響で、チームとは別メニューで行動。「死ぬかもしれない」と思うほど新生活に苦戦しながら、5月にはチームに復帰した。
大学バスケのデビュー戦となった6月の新人戦で、にきび跡が目立つあどけない顔の1年生は、「目立ったことはできないけど、ジャンプ力だけには自信があります。これからは1対1をしっかり決めきる力をつけたい」と話していた。この回答に、安藤が自身の将来像を、1対1のドライブで仕掛ける「スラッシャー」に見定めている印象を受けた。
しかし、青学大の首脳陣には別の思惑があった。長谷川健志氏(現・同大アドバイザー)に代わり、その年の春からヘッドコーチ(HC)に就任した廣瀬昌也氏は、安藤に3ポイントシュートという武器を授けようと考えたのだ。当時、廣瀬HCはその理由について以下のように説明していた。
「いまの青学はアウトサイドシュートの力がちょっと弱い。その中でどのようにチームを組み立てようかと考えたとき、安藤に目が留まりました。彼は外のシュートに対していい感覚を持っているし、身体能力も素晴らしい。これは将来大きく伸びると感じました」
新人戦が終わり、夏を迎え、リーグ戦に向けた練習が始まったころ、安藤は廣瀬HCから「お前はスリーがうまくなる素質がある。3番(スモールフォワード)でなく2番(シューティングガード)に挑戦しないか」と声をかけられた。高校時代から3ポイントは打っていたし、それなりに自信もあった。「もっとうまくなるためにやるしかない」。そんな思いを胸に、特訓を開始。全体練習後、廣瀬HCにパスを出してもらい、30分から1時間ほどのシューティングに毎日取り組んだ。
「1時間もシュートを打ち込むと相当しんどいんですけど、新しい自分が見られると思うと、楽しかったですね。どんどんシュートが入る感覚が分かってきたし、毎日、廣瀬さんからいろんなアドバイスをもらえたし……。リングを一人で貸し切って打てたのもうれしかったです」
安藤は懐かしそうに言った。
アウトサイドシュートは現在の安藤を語る上で欠かせない要素だ。廣瀬HCの慧眼(けいがん)により、安藤は単に身体能力の高いフォワードから、シュートという付加価値を持ったスペシャルな選手へと変貌していくことになる。
圧倒的な実力差、「バスケをやめたい」とすら思った
充実した日々を過ごした夏から一転、その年の秋は、安藤にとって受難の季節となった。
学生界屈指のフォワードで、当時4年生だった張本天傑(てんけつ、現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が秋のリーグ戦前に負傷し、長期離脱することに。安藤は張本と入れ替わるようにスタメンに入った。春シーズンをけがでほぼ棒に振った1年生としては異例の大抜擢(ばってき)に、安藤はひどく委縮してしまった。
「けがで出遅れた僕は同期と比べて、先輩たちと一緒にプレーする時間やコミュニケーションが少なかったし、『本当に自分が出てええんかな?』っていう気持ちはいつもありました。先輩たちからは『俺らがカバーするから好きなようにやれ』と言ってもらってはいたけれど、正直『こいつ本当に大丈夫かな』って思っていただろうし、僕はなんとかそれを挽回しようとして、空回りすることも多かった。あのときは本当に気持ちがごちゃごちゃしていました」
安藤はそう当時を振り返った。
とくに第9節の東海大戦は、いまでも苦い思い出として胸に刻まれる試合となった。当時の東海大は、田中大貴(現・アルバルク東京)、晴山ケビン(現・千葉ジェッツ)、ベンドラメ礼生(現・サンロッカーズ渋谷)など、青学大に劣らぬ好選手ぞろい。安藤は自身初の東海大フルメンバーとの試合で、完膚なきほどに叩きのめされた。
安藤をマークしたのは東海大屈指のディフェンスマン・須田侑太郎(現・アルバルク東京)。プレッシャーはすさまじく、安藤は自身が持つすべてのプレーを封じられた。「何をすればいいか分からない」という大きな動揺の中で得点は振るわず、ディフェンスでも穴に。結果は53-60。チームはこの大会初めての敗北を喫した。
圧倒的な実力差、そして自分が先輩たちを負けさせたという申し訳なさから、安藤は人生で初めて「バスケをやめたい」とすら思ったという。その後も自分のプレーを見失う日々は長く続き、何度も同じ思いに駆られたが、その度に浮かんだのが両親の顔。「ここまで育ててもらって、東京にまで出してもらったのにリタイアするのは申し訳ない。そう思って踏みとどまりました」
当時のコメントから察するに、廣瀬HCは彼のスランプに気づいていた節がある。しかし、それでもあえて上級生でなく彼をスタメンで使い続け、練習中には厳しい声をかけ続けた。スケールの大きな選手に育ってほしい。すべてがその一心だったのだろう。
いまやりたいことに一生懸命になる
冬のインカレでは張本が復帰したこともあり、安藤はスタメンの重責から解放された。チームはインカレ3位でシーズンを終え、安藤はオフを利用して気持ちをリセット。2年目のシーズンからはポジティブにバスケと向き合えるようになったという。その後は順調に成長を重ね、3年生のときには初めて世代別日本代表のフルメンバーに選出。海の向こうのバスケに触れたことで、プロに挑戦したいという思いも芽生えた。安藤は振り返る。
「あの1年目がいまの僕の始まりなのかな。いろんなことで苦しんで、悩んだ1年だったけれど、いま思えばあのときがあったからこそ、いろんなことを乗り越えられる自分になれたんだと思います」
バスケも、トレーニングも、生活も。すべてのことにケタ外れの衝撃を受けながら、安藤は必死で毎日を過ごしていた。エースとして活躍した高校時代を懐かしむことも、全国上位レベルで鍛えてきた同い年との実力差に一喜一憂することもなかったという。後ろや横を見ている暇(ひま)なんてなかったからだ。
「早い内から自分の将来を明確にする必要はないと思うんです。いまやりたいことに一生懸命向き合いながら、楽しんで生きてほしいです」。安藤が現役大学生に向けたメッセージには、頭を真っ白にしながら、それでも“いま”を全力で生き抜いた、かつての自分が重なっていた。