駅伝からトレイルへ! 元鹿屋体育大学主将・宮崎喜美乃さんが挑む山の世界
「M高史の駅伝まるかじり」今回は宮﨑喜美乃選手(31、ミウラ・ドルフィンズ所属、THE NORTH FACE契約アスリート)にお話をうかがいました。西京高校では3年連続で全国高校駅伝に出場。鹿屋体育大学では杜の都駅伝入賞チームのキャプテンを務め、その後トレイルランナーとなり、国内外のレースで活躍を見せています。
走ることに向き合った高校3年間
小学1年生の持久走大会で1位だったという宮﨑さん。小学校4年生のときに地元のスポーツ少年団に入り、陸上を始めました。中学でも陸上部。高校は駅伝の名門・山口県立西京高校へ。宮﨑さん曰く「人生で一番走ることに向き合った3年間」という濃い時間を過ごしました。
親元を離れてチームメートと寮での共同生活、勉強と部活の両立、そして全国高校駅伝連続出場という先輩方の伝統を途切れさせないように、というプレッシャーがありました。高校3年間、多感な時期ということもあり、人間関係にも気を使う日々でした。2年生の時に走った駅伝で順位を落としてしまったことがトラウマとなり、しばらくは「駅伝が恐い」という状態でした。
「それでも3年連続で全国高校駅伝に出場できたことは自信につながりましたし、伝統をつなげてくれたチームメートやその家族、寮生そして顧問の先生に本当に感謝しています!」。やりきった一方で「これ以上は頑張れない」というほど、身も心も追い込んだ高校時代でした。
鹿屋体育大学へ進学、キャプテンとして苦悩
高校卒業後はゼロから自分のことを知らない土地で頑張りたいという気持ちもあって、鹿児島県にある鹿屋体育大学へ進学します。入学してから3年生までは故障ばかり、過食気味で体重も10kg増えてしまったそうです。
恩師・松村勲監督は教育的な先生で、基本的なメニューを提示してくれますが、自主性を大切にしてくださる方だったそうです。「調子が悪かったら量を減らす、ポイント練習日を変更するなど、自分で考えることが求められましたが、当時の私はこれが下手でした(笑)。 今でも走ることができるのはこの時のおかげだと思っています」
故障続きだった宮﨑さんですが、4年生になりキャプテンを任されることになりました。キャプテンが引っ張らなきゃと意気込むも「なかなかうまくいかず、歴代の先輩たちまで巻き込んでいきましたね(笑)」と、キャプテンとしての苦悩を振り返ります。
チームとしてはシーズン前半の大きな目標としていた九州インカレで結果が出ず、応援に来ていた先輩には「キャプテンだって決められないことがあるよ」とアドバイスを受け、その一言が当時の宮﨑さんを救ってくれたと言います。
チームをマネジメントし、役割分担
そんな中、ある1冊の本に出会いました。
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(発行:ダイヤモンド社、著:岩崎夏海氏)。通称「もしドラ」です! 「これだっ!!!」と思った宮﨑さん。もしドラの通りにチームをマネジメントしていくことに決めました。
「キャプテンだからチームを引っ張らなきゃ」という重すぎるプレッシャーを感じるのではなく、「マネージャー的な視点で、一人ひとりに役割を与えること」から始めました。
一番走れていた同級生の上田敏斗美(さとみ)選手には「Aチームを引っ張ってほしい」とお願いをしました。宮﨑さん自身は故障者の代表として下のチームを引っ張り続けました。また時には男子のキャプテンとも話をして、「今、女子はこういう感じ」といった客観的な意見、助言を求めます。
「一人じゃ無理、みんなの協力があってこそ」と振り返ります。
急激にチームが変貌を遂げたわけではなかったそうですが、少しずつ変化が現れ始めたそうです。「まず故障者が減りました。そして、下のチームが一番頑張るようになりましたね。結果的に上のチームにも火がつきました」と徐々に好循環が見え始めます。
「自分の経験上、故障者はどうしても劣等感を感じやすく、チームから離れやすくなります。そこをどう引き止めていくかが難題でした」。しかし一人ひとりに役割を与え始めてから、ポイント練習以外のジョグや補強・マッサージなど、走れている選手とそうでない選手関わらず時間を合わせて一緒に行う、同じ時間共有し合う選手たちが現れ始めました。そして、チーム内のコミュニケーションもうまくいくようになってきました。
Aチームを引っ張り続けた上田選手は秋に行われた日本インカレで800m、1500mの2冠を達成! 学生日本一を決める大舞台にて2種目で優勝を飾る躍進でした。
故障をしている選手にも「悩みを聞いてくれる先輩」という役割をお願いして、必ず一人ひとりが何かしらの役割を担うことで、チームの雰囲気もかつてないほど良くなってきました。
宮﨑さん自身も練習を継続できるようになってきて、杜の都駅伝のメンバー入りするかどうかギリギリのところまで実力を上げてきました。ただ最後の最後でメンバー入りできず、補欠に。チームのサポートに回ることになりましたが、「自分が選手に選ばれたいという気持ちよりも、自信を持って送り出せるメンバーにキャプテンとして誇らしく思っていました!」と思い返します。
杜の都駅伝で奇跡の追い上げ!
杜の都駅伝前、メンバーも好調で、シード権(当時は6位まで)獲得を目指していました。1区を任されたのはこの1年、Aチームを走りで引っ張ってきた上田選手でした。しかし、まさかの区間21位と出遅れてしまいます。
1区でエースの出遅れは、2区以降の選手たちへ精神的なダメージも心配される中、宮﨑さんは「これで終わりじゃない! 最後まで何があるか分からない! 自分の過去のトラウマと同じ思いはさせない!」と、チームメートに必死で声をかけて回りました。
そこから鹿屋体育大学はジワジワと順位を上げていき、5区終了時には8位まで順位を押し上げ、アンカーに襷(たすき)リレーをします。6区を任されたルーキー藤田千尋選手がさらに順位を上げて、ラスト勝負を制し、6位でフィニッシュ! 見事シード権を獲得するという、九州勢初の快挙でした!
「みんなでつないでいくという、本当の意味での駅伝だと思いました。フィニッシュした時には故障者もメンバーに入れなかった部員もみんなが泣いていて、いいチームができたと思いましたね!」
宮﨑さん自身は最後の最後で走ることはできなかったものの、キャプテンとしてやりきったという熱い気持ちが伝わってくるお話でした。
山との出会い
大学では運動生理学を勉強していたそうですが、将来何の仕事をしていくか、当時は何も思いつかなかったそうです。
大学の卒業研究を探している中で「所属していたゼミの教授が、晴れた日には山に行こうという方針の方で(笑)、近場の山や岩をはじめ富士登山など現場の方に寄り添った研究をしていました。だんだん楽しくなってきて、登山という走る以外の楽しみを見つけたんです!」
高所での体の変化を調べたり、山のための新しいトレーニング方法を考案したり、体がどういう風に変化していくのか、心拍数、血圧などデータをとるのが好きでした。
山の魅力に惹かれた宮﨑さん。山の運動生理学を極めようと、鹿屋体育大学大学院に進みます。「大学院では登山特有の体力を測るための研究をしていました。発表を作り上げていくのが楽しかったですね」と話します。先生のデータ集めを手伝うため、踏み台昇降やトレッドミルのほか、呼気ガスマスクをつけて歩いたりしてデータをとるなど、周囲に驚かれるほど論文を読み漁っていたそうです。
また大学院生の時に、冒険家・プロスキーヤーとして知られる三浦雄一郎さんのエベレスト登頂前に体力測定をお手伝いしたご縁もあって、その後、ミウラ・ドルフィンズに所属。低酸素トレーニング指導、データの集積、解析などを行うことになりました。
トレイルランへの挑戦
その後、周囲の誘いもあり、社会人2年目にトレイルレースに挑戦します。最初はハセツネ(長谷川恒男カップ日本山岳耐久レース)72kmに出場。
その後、2015年STY(76.7km)女性優勝、2018年UTMF(168km)女性8位(NewHeroineAward受賞)、ハセツネCUP(71.5km)女性準優勝、2019年Oman by UTMB(170km)女性3位など、数々のトレイルレースで優勝、入賞を重ねる宮﨑さん。国内にとどまらず、海外レースでも活躍されています。
中でも今チャレンジしているのが100マイル(約160km)のレースです。「100マイルで結果を出したいですね。100マイルを24時間で走る、というのを一つ目標にしていきたいです。もちろんコースやコンディションによって29時間だったり53時間だったりバラバラなのですが(笑)」
途中のエネルギー補給、岩場、急斜面での進み方、急な天候の変化への対応、途中の景色も楽しみながらも「100マイルは頭脳戦!」と語る宮﨑さん。24時間走り続けるペースは決して速いわけではなく、ついていけそうなペース。しかし思わずついていってしまうと、オーバーペースにハマってしまう恐れがあるそうです。
さらに「客観的に自分を見るのは難しいので、データを利用して成長していきたいですね。それを形にして、論文にして、再現できるようにしていきたいですね」と気持ちだけではなく、データを生かして、再現性のある走りを追い求めています。
「寝ないでどこまで速く走れるようになるか、疲れにくい体をどうやったら手に入れられるか。究極の体力を得たいんです!」。ストイックに自らの理想を追い求め、宮﨑さんは走り続けます!