オリンピックで4回転、勇気を届けた世界選手権銀 フィギュアスケート・小塚崇彦3
「4years.のつづき」から、フィギュアスケート男子で2010年バンクーバーオリンピック8位、2011年世界選手権銀メダルの小塚崇彦さん(31)です。中京大卒業、中京大大学院修了、社会人になってスケート靴の開発やスケート教室など、競技の普及活動に携わっています。全5回連載の第3回は大学時代に経験したオリンピック、東日本大震災後に開催された世界選手権を振り返ります。
初舞台で4回転成功
2009年、大学3年でオリンピックシーズンを迎えた。高橋大輔(関西大学カイザーズフィギュアスケートクラブ)、織田信成さんとともに「日本の男子の黄金時代」の一翼を担うまでに成長。前シーズンはグランプリ(GP)ファイナル2位、世界選手権6位など好成績を残し、波に乗っていた。GPシリーズ初戦のロシア杯は2位、次戦のNHK杯で7位と後退したが、気持ちを切り替え、代表選考会を兼ねた全日本選手権で3位に食い込み、バンクーバーオリンピック代表の座を勝ち取った。
オリンピックが開幕し、バンクーバーの街中がお祭り騒ぎで心が躍った。ショートプログラム(SP)で8位につけ、迎えたフリー。4回転ジャンプを試合で初めて成功、それも日本代表の中でただ一人の快挙だった。「火事場の馬鹿力、オリンピックの馬鹿力です」。後半のジャンプでミスは出たものの力を出し切り、演技後は手をたたいた。総合8位入賞を果たし、世界の舞台で「小塚崇彦」の名を刻んだ。
そして日本男子初となる高橋の銅メダルも見届けた。「日本男子で初めてのメダルで信夫先生がすごくうれしそうだったのを覚えています。表彰式をリンクサイドで見て感動して、自分も日の丸を揚げたいなと思いました」
終わってみれば、4回転を成功した嬉しさとミスが出た悔しさと半々の気持ちだった。「もう一回出たい」。そう心に留めたオリンピックだった。
見えてきた世界選手権表彰台
オリンピック直後の世界選手権にも出場した。SP4位につけるもフリーはミスが出て総合10位。そこで収穫があった。「すぐそこまで世界の表彰台が来ていると感じました。うんともすんともびくともしない状況ではない、どうにかなりそうだ、と。距離が見えました」
そこからは練習への考え方が変わった。新シーズンが始まり、世界選手権の表彰台に向けて不安な要素をひとつひとつ消していった。すると試合に自信を持って臨めるようになった。数字に強い小塚さんにとって点数化された要素を積み上げていく新採点方式は相性がよく、得点も確実に伸びていった。GPシリーズフランス杯のフリーでは高得点をたたき出し、その時に審判をしていた関係者に「もう一回見たい」と言わしめた。GPファイナル3位、全日本選手権も初優勝を飾り、世界選手権への切符を手にした。
研究を続けるため大学院へ
スケートで躍進する中、学業も計画的に進めて大学4年春学期(前期)にはほぼ単位を取り終えていた。スケートを続けるため、そしてバイオメカニクスの研究を続けるため、中京大大学院進学を決めていた。
「バイオメカニクスがこれから必要な世界になると思っていました。アメリカやカナダでは動作解析による指導が少しずつ始まっていましたが、日本はナショナルトレーニングセンター以外ではなかなか導入できていませんでした」。インプットだけではなくアウトプットを大事にしてきたからこそ、バイオメカニクスを通してフィギュアスケートに生かし、その思考を体現しようとしていた。
世界選手権銀、エースに成長
2011年3月、大学院進学を前に日本開催の世界選手権が控えていた。だが東日本大震災が発生。日本開催が中止になり、ロシア・モスクワに会場を変更して4~5月に行われた。会場では日本代表を温かく迎えてくれた。「開会式が心に響きました。氷上に照明で日の丸が描かれ、民族衣装を着たスケーターが日本を励ますメッセージを送ってくれました。ここで頑張ることでしかメッセージを発せられないと思いました」
その大会は予選があり、日本から1人が出場する必要があった。同じく代表の高橋、織田さんではなく「末っ子」の小塚さんが出場した。本選でもSP6位からフリーでは4回転ジャンプを鮮やかに決めて順位を上げ銀メダルを手にした。世界選手権で自身初の表彰台、日本男子としては4人目となる快挙だった。そして大震災で落ち込む日本に勇気を与えたメダルでもあった。表彰後は「がんばろう ニッポン!」と書かれた日の丸を掲げ、世界にメッセージを届けた。その姿は日本チームの「末っ子」ではなく、「エース」の輝きを放っていた。
(次回は17日公開予定です)