リンクから離れて再び、恩返しをするために フィギュアスケート・小塚崇彦5
「4years.のつづき」から、フィギュアスケート男子で2010年バンクーバーオリンピック8位、2011年世界選手権銀メダルの小塚崇彦さん(31)です。中京大卒業、中京大大学院修了。社会人になってスケート靴の開発やスケート教室など、競技の普及活動に携わっています。全5回連載の最終回は現役引退とその後のキャリアについて語ります。
「また頑張ろう」と思えた
小塚さんは2014年ソチオリンピック代表を逃し、現役引退か続行か気持ちは揺れた。練習に身が入らない日々が続いていたが年明けの四大陸選手権で表彰台に立ったことで再び滑る意欲を取り戻した。高橋大輔の辞退で世界選手権の出場のチャンスが回ってくると、短期間で調整を間に合わせ総合6位で終えた。
だがその後は「燃え尽き症候群」に陥った。代表落ちした気持ちを引きずったまま新シーズンを迎えた。反抗期のように母とけんかになり、心療内科を受診するよう言われたほどだった。復学して大学院と両立しようとすると、競技専念を説く佐藤信夫コーチとすれ違いも生じた。
グランプリ(GP)シリーズ2戦で表彰台を逃し成績は低迷。ソチオリンピックで日本男子初の金メダルを獲得した羽生結弦、ジュニア一番手だった宇野昌磨など若手が育ち、国内でも厳しい戦いだった。それでも全日本選手権でショートプログラム(SP)6位からフリーで4回転ジャンプ2本を入れる攻めの構成でフリー2位と逆転、演技後は大きなガッツポーズが出た。復活劇に会場は大歓声に包まれた。2年連続3位の表彰台で世界選手権代表にも選ばれた。「また頑張ろう」と、気持ちがわいてきた。
「力を出し切れない」引退へ
年明けの世界選手権はSPの出遅れが響き総合12位に終わった。大学院で研究を進める一方、スケートの調子は上向かなかった。左足首のけがでGPシリーズ中国杯を欠場、ロシア杯は9位に沈んだ。加えて右股関節も悲鳴を上げていた。佐藤コーチやトレーナーの支えもあり、なんとか練習を続けることはできたが限界を感じるようになった。「トップを走ってきた力を出し切れない、自分のパフォーマンスを出し切れない。その気持ちに疲れてきました」。年末の全日本選手権を前に引退への気持ちが固まっていった。
全日本の舞台は札幌、少年時代から何度も滑ってきたリンクだった。フリーの曲は前シーズンから継続、1年前にあのガッツポーズをした「イオ・チ・サロ」を選んだ。リンクサイドで佐藤コーチからいつもどおり背中をポンと押されてリンクに立った。最後はベテランの意地だった。4回転ジャンプ2本を構成に入れ、真骨頂の滑らかなスケーティングを披露。男性ボーカルにのせた情感あふれるステップで観客の心をひきつけた。「演技を終えた瞬間、気持ちがすぽーんと抜けていくものがありました。そこで終わり、ですね」。総合5位。中学3年から12年間で続けてきた全日本選手権を最後に競技生活に別れを告げた。
スケートの普及のために
2016年3月、大学院を修了し競技も引退した。4月からはトヨタ自動車で社会人として働き始めた。大学院時代を振り返って思うことがある。「一つのことを突き詰めるのは大切なこと。文武両道はすごく難しいと思うのですが、今は学業、今はスポーツのことと切り分けられるようにすればできることだと思います。引退後にどんな人生が待っているかというと、全然違うことに出会うかもしれないし、もっと興味があることに出会うかもしれない。その可能性を残しておいてほしい。学問はいろんなものに触れ合える舞台なのですごく大切にしてほしいですね」
トヨタ自動車ではスケート以外の仕事に関わった。もしスケートの道に行くとしても社会人として経験を積むことは父の教えだった。そこで改めて「スケートが好きなんだ」という気持ちに気づいた。「ほかのスポーツに関わることで、『フィギュアスケートならこれができるな』と、いつもフィギュアスケートが主語になっていました。自分の好きなスケートをいろんな人に知ってもらいたいと思うようになりました」。一度は離れたスケート界だったがそこに戻ることを決めた。
全国各地をまわり、フィギュアスケートの普及活動に取り組む。アイスショーに参加したり、子供たちのためにスケート教室を開いたり。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で活動は少なくなっているが、再開を待っている。ほかにも地元・名古屋市の企業と靴のブレードやブーツの開発にも携わっている。スケート一家に生まれ、日本のスケート界を彩ったスケーターは新しい舞台で恩返しを続けている。
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