東京農大OB・津野浩大さん 箱根駅伝5区のブレーキから学んだ諦めないことの大切さ
今回の「M高史の陸上まるかじり」は津野浩大さん(29)のお話です。東京農業大学では箱根駅伝に3度出場。2年生で迎えた箱根5区山上りではブレーキとなってしまったものの、気力で走りきりました。実業団・セキノ興産での競技生活を経て、現在は地元・高知県で会社員をしています。
野球少年が高校から陸上の道へ
高知県出身の津野浩大さん。小学校、中学校では野球部でしたが、走るのも日課だったそうです。「父から野球も体力がないとと言われて、野球の練習が終わってからランニングをしていました。父も自転車で伴走してくれて、ほとんど毎日続けていましたね」と野球のための体力作りで走り込んでいました。
津野さんが通っていた中学には陸上部がなかったそうで「県駅伝には野球部やバスケ部などの特設チームで出場していました」。親子二人三脚で鍛えた走力が生きて、津野さんもメンバー入り。1区を走り区間6位と好走。「少し自信がつきましたが、その時はまだ陸上を本格的にやることはあまり考えていませんでした。ただ、中学のバスケの部の先生の勧めもあって、ご縁があって高知農業高校で陸上を始めることに決めたんです」と高校から陸上の道へ。
高知農業高校陸上部での最初の練習のこと。「そこそこいけると思っていたのですが、高校に入学して最初の練習では1本もつけなかったんです。1年目は貧血もあって、全然走れなかったですね。一時はウォーミングアップもついていけないほどでした。ただ、監督が貧血を経験したことがある方で、詳しくて色々アドバイスしていただきました」。入学当初は思うように走れませんでしたが、栄養にも気をつけながら1年生の冬にはようやく走れるようになってきました。
2年生になって、最初の記録会で5000m14分50秒と初の14分台をマーク。その後も徐々に力をつけていき、3年生になると高知県、四国大会と負けなしの存在に。5000mでも14分20秒80と高知県高校記録を更新しました。この記録は現在も高知県高校記録です。
四国大会では優勝も飾り、全国の舞台に挑みましたが、インターハイでは全国のレベルの高さを痛感。国体、全国高校駅伝、都道府県駅伝も経験しましたが全国に出た途端、壁にぶつかったといいます。
「高校時代は全く走れないところからのスタートでしたが、地道にコツコツ続けて、やっと結果が出ましたね。監督、チームメイトのおかげで充実した高校生活でした」
ちなみに高知農業高校は農業高校ということで、普通の高校とは違って専門分野も多かったそうです。「茶畑があって茶摘みの実習もありましたよ! みかんの缶詰作りなど、普段経験できないような実習もあってかなり専門的に勉強していましたね」。実家が農家ではなかった津野さんにとって、農業の勉強や実習は新鮮だったそうです。
1年生で急遽挑んだ箱根5区
2010年に高校を卒業した後は東京農業大学へ。「高校の1つ上の先輩がいたのも心強かったですね。上京して最初に驚いたのは電車でした。地元では上りと下りしかなくてまず迷うことはなかったですが、東京の電車は複雑でしたね(笑)」と当時を思い出すように話されました。
順調に力を伸ばして、1年目から箱根駅伝のエントリーメンバー入り。「箱根駅伝5区への憧れが自分の中ではありました。ただ、1年目は補欠の予定だったんです。調整練習をして、前田(直樹)監督(当時)から『また来年頑張ってくれ』と言われて、来年頑張ろうと気持ちを切り替えていたところ、また監督に呼ばれて急遽5区を走ることになったんです」。5区を走るのが決まったのはなんと大会前日の15時のことでした。
最初は驚き、かなり緊張もしたそうですが「(交代することになった)先輩の分までと思って走らせてもらいました」と覚悟を決めて走り出しました。「力不足で順位を落としてしまいました」。区間17位の箱根デビューでした。
2年生ではさらに力をつけ、箱根に向けても好調。「今年はやってやるぞ!」と2012年の第88回大会では、再び5区に挑むことになりました。
ところが、予想だにしない出来事が待ち受けていたのです。「当日の朝、もう交代ができないタイミングで体調が急変してしまったんです。前日までは調子も良くて、当日の朝練でも調子は大丈夫でしたが……」。朝6時50分のメンバー変更を締め切った後の突然の体調不良。
スタート前に監督から電話もありましたが、津野さんは「走るしかない! 最後まで走り抜く!」と覚悟を決めてスタートしました。
「最初はアドレナリンが出ていたのか、きつくなかったです。ただ、3kmを過ぎてから『おかしい、体が動かない』という状態でした。そこからは果てしなかったですね……」。レース中、監督も車から降りてきて「やめてもいいぞ」と津野さんに声をかけます。ところが津野さんは「走らせてください」と返答。「やめるということだけは考えていませんでした」。フラフラな体でも襷だけはフィニッシュまで運ぶと決意していました。
「往路のアンカーということで責任は感じてましたが、途中から記憶がほぼないんです」と気力を振り絞りました。意識も朦朧とする中、当時23.4kmの区間で1時間46分49秒を要したものの、なんとか芦ノ湖のフィニッシュに辿り着きました。「監督からは『よく最後まで走ってくれた』と言っていただけたのですが、自分は結果を出したかったので本当に申し訳ないという思いでした」。フィニッシュ後すぐに点滴を受けました。
翌日の復路は寮のテレビから観ていたという津野さん。6区を任されたのは同期の佐藤達也さんでした。津野さんとも仲が良かったという佐藤さんはなんと区間2位の好走で山を駆け下りました。「感動しました」と津野さん。同級生のアクシデントをカバーする佐藤さんの魂の走りでした。
箱根でのリベンジに向けて
2年生の箱根が終わってからは「箱根前が好調だっただけに、心の切り替えができませんでしたね。なかなか精神的にも参っていた部分もありました。集中できず、夏場もほとんど故障していて、本格的に走り始めたのは夏明けでしたね」。3年生ではなんとか16人のメンバーにはギリギリ入れたものの、箱根本戦は走ることはできませんでした。
4年生は「泣いても笑っても最後の年ということで、特別な思いでした。合宿からかなり走り込みました。力のある後輩も入ってきて刺激ももらいましたね」4年生として練習から積極的に引っ張って行きました。
10000mの自己記録は1年生の時にマークした29分35秒でしたが、4年生になって28分52秒16まで縮めてきました。5000mでも13分59秒69と13分台に突入。
10月の箱根駅伝予選会では個人11位(日本人8位)となる59分43秒(当時は20km)。「かなり自信もあって、農大の中ではトップを取ろうと思って走っていましたが、後輩の戸田(雅稀)くん(現・SGホールディングス)に負けてしまいました。ただ、個人だけではなくてチームとして全体的に結果が良かったので嬉しかったですね」。チームとしても予選会1位通過で箱根出場を決めました。
最後の箱根では花の2区に挑みました。「5区でリベンジしたい気持ちも強かったですが、監督からは『今のチームの状況から2区を走って欲しい』と言われ2区を走ることになりました。最後の箱根では自分の走りはできたと思います」。津野さんは区間13位ながらチームの順位を3つ上げる走り。「山あり谷ありの濃い4年間」という学生生活を締め括る箱根路となりました。
実業団を経て、津野さんの現在
大学卒業後は実業団・セキノ興産へ。東京農業大学の先輩・若松佑太さんがセキノ興産でコーチ(現・アドバイザー)をされていたご縁もありました。
セキノ興産の拠点は新潟ということで「全然違う気候で、慣れるまでだいぶ時間がかかりましたね。雪に苦労しました(笑)」。高知県出身で雪とは無縁だった津野さんにとって、初めての豪雪地帯で生活は驚くこともありました。
北陸実業団駅伝では5区で区間賞も獲得。「5区は起伏があるコースだったのですが、体もしっかり動いて走れました」。実は高校までは上りに苦手意識があったそうです。「上りをどうやって強くなるかなと考えた時に、まずはイメージからと思ったんです。『上りは自分が一番強い』ってイメージして走っているうちに上りが強くなっていきました。思い込むって大事ですね!」。イメージトレーニングを重ねていくうちに上り坂への苦手意識を払拭し、学生時代は箱根5区も務め、実業団でも上り坂を克服していきました。
高校、大学とは違い実業団では「結果を出さないと!」という気持ちが空回りし、なかなか結果につながりませんでした。「実業団ではけがが多くて、なかなか治らなかったですね。コーチの若松さんに誘っていただいたのもあって結果を出さないと思っていたのですが。競技人生をふりかえってみると、貧血になったり、怪我をしたり、結果が出ないこともありましたが、コツコツやってきた競技生活でした。陸上を始めた時に、才能はあまりないなと自分で思っていました。その分、努力して上に行くしかないなと思ってやってきました」
現役引退後は社業に専念されましたが、昨年、高知へ戻って会社員に。「やっぱり地元はいいですね。一番落ち着きます」。現在は結婚されて、子供4人のお父さんでもあります。
「(育児は)にぎやかですよ(笑)。今は仕事と子育てで大変ですが、落ち着いたらもう一度走りたいなと思っています。親子マラソンとかも一緒に走ってみたいですね。現役時代は走るのが嫌いになった時もありましたが、1度離れるとやっぱり走りたくなるものですね」。ちなみに、最近では津野さんの影響でご両親も走り始めたそうです。
「自分が大学2年生の時にああいう経験をして、いろいろ感じることが多かったです。挫折をしたからこそ得るものがありました。周りの人に支えられてきたということ、そしてやっぱり諦めないことが大事とその時に感じましたし、これからの人生に活かしていきたいですね」。箱根駅伝でブレーキという苦い経験をした津野さんですが、現在はその経験を糧にして未来に向かって仕事に育児に現状打破されています。