陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

特集:東京オリンピック・パラリンピック

城西大で関東インカレ4連覇の山口浩勢選手 日本選手権初優勝を経て再び世界へ!

昨年の日本選手権3000mSCで初優勝を飾った山口浩勢選手。写真は2017年ウガンダで開催された世界クロカン(写真はすべて本人提供)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は山口浩勢選手(29、愛三工業)のお話です。城西大学では3000mSCで関東インカレ4連覇、日本インカレ優勝も果たし、箱根駅伝にも出場しました。2度の世界クロカン日本代表やアジア大会日本代表を経て、昨年の日本選手権では3000mSCで8分24秒19の自己新で初優勝。東京五輪代表内定条件となる五輪参加標準記録(8分22秒00)まであと2秒19までせまっています。

ジャンプするのが大好きだった少年が陸上の道へ

愛知県知多市出身の山口浩勢選手。小学校5年生の時に友達と陸上クラブに入りました。

「球技が苦手でしたが、飛び回ったりするのが好きで器械体操への憧れもありました。アスレチックとか高いところからジャンプするのが好きだったんです。今思えばあの時の習慣が3000mSCやクロカンへの土台となっていたのかもしれないですね(笑)」。跳ぶのが好きだったこともあってか陸上クラブでは走高跳をやっていたそうです。 

中学に入ってから部活を選ぶ際に「第一希望が新体操部、第二希望がバレーボール部、第三希望が陸上部だったのですが、新体操もバレーボールもまさかの廃部になり『小学校でもやっていたし陸上にしておくか』という軽い気持ちで陸上部に入りました」。もし新体操部やバレーボール部が存続していたら全然違う人生だったかもしれないと振り返りました。最初は走高跳をしていましたが、同級生に勝てず。「自分でも上位に行ける種目を」と上に行くため勝負するための種目選びでハードル、ジャベリックスロー、走幅跳などにも挑戦。「冬場に部員全員で長距離を走った時に意外と走れまして」と1年生の冬には長距離の道へ進むことになりました。

中学時代の山口選手(3番)。中学時代は3000m9分36秒がベストでした

その後、長距離で実力を伸ばしていき中学時代は3000m9分36秒がベスト。「県でも13番くらいで、全国大会はまったく届かなかったです」という中学時代でした。

3000mSCとの出会い

高校は惟信高校に。「中学卒業の時に骨折してしまって、1年生の夏まではリハビリで競歩の選手と歩いてばかりいました」。故障も癒えて1年目の秋から走れるようになり、最初の5000mでも15分台をマーク。手応えを感じました。

山口選手の代名詞ともなる3000mSCとの出会いは2年生の4月でした。

「2つ上の先輩が3000mSCでインターハイに出場していたんです。面白そうでしたし、興味もありました。初めてのレースで9分45秒で走れて、この方が上位に行けるんじゃないかと思いましたね」と3000mSCに本格的に挑戦することになりました。

3000mSCを始めたこの年、インターハイにも出場。ところが「初めての全国大会でわからなかったのですが、大きい試合は招集時刻が早めに設定されていることが多いんですね。知らずにウォーミングアップで動き作りをやっていたら付添部員が急いで呼びに来て、急いでゼッケンをつけて、ほとんどアップもできず、はかなく予選落ちとなりました」とほろ苦い初インターハイとなりました。

前年の反省を活かし、3年生で迎えたインターハイでは8位入賞。「個人的には優勝を狙っていての8位でしたが、学校関係者や周りの方にも喜んでいただけたのは嬉しかったですね」

高校3年のインターハイで8位入賞。チームメートから祝福される山口選手

高校3年間は皆勤賞。自宅から惟信高校までは通学時間もかかりました。「朝練には始発の電車で行かないと間に合わないので毎朝5時43分の電車に乗っていました。さらに学校の最寄り駅から自転車で40分。到着してから朝練だったので、朝練前にウォーミングアップも完了って感じでしたね(笑)。帰りも遅くなりますし、いま思えばよくやっていたなと思います」。駅からはバスもあったそうですが、山口選手は自転車で通学。自転車往復もトレーニングの一環になっていたといいます。

世界ジュニアで感じた海外勢との差

高校を卒業して城西大学へ。「ここで陸上で成功したい!」とワクワクした気持ちで城西大学駅伝部の寮に入寮しました。

関東インカレ3000mSCでは4連覇を達成することになる山口選手ですが、1年生の時はまさか優勝できるとは思っていませんでした。「当時、棟方(雄己)さん(当時・中央大学)が1番持ちタイムが良かったのですが、棄権されました。元村(大地)君(当時・東海大学)、小池(寛明)君(当時・東洋大学)といった選手の方がネームバリューがあったのですが、前で競り合って消耗したのか、気がついたら先頭に立っていました。走っていたらモニターに自分が大きく映っていて驚きました(笑)」。優勝タイムの8分47秒94という好記録も評価され、世界ジュニアの日本代表にも選ばれました。

ご自身でも驚いたという1年生での関東インカレ制覇。以後、4年生まで負けなしの4連覇を飾ります

迎えた世界ジュニアでは、予選を上位で通過し決勝に進出。「それまでトントン拍子できてちょっと浮かれていたところもありました。決勝の前夜、他国の選手たちが音楽を流しながら夜まで騒いでいるんですよ(笑)。当時は周りばかり気にしていましたね。移動疲れもあったと思いますが、決勝では足もバキバキに張っていて1人だけ9分かかって最下位でした」と決勝の舞台で力を発揮することができませんでした。

ちなみに、この時の世界ジュニア10000mには同学年の大迫傑選手も出場。「大迫君は周回遅れにされた悔しさをバネにして、そこからの取り組みが全然違いましたね。種目は違ってももう1度同じ舞台に立ちたいです」と同い年の活躍も刺激になっています。

決勝では全く力を発揮できなかったとふりかえった世界ジュニア

3000mSCで磨いたスピードを評価され、大学駅伝では1年目から出雲、全日本で1区を任されました。「高校までは駅伝強豪校ではなく、緊張しましたね。中継のカメラが来て『今、これ映っているのかな?』と変なところでペースアップしてしまったり(笑)」。出雲では1区10位、全日本では1区16位と結果を出すことができなかったそうです。

1年生の全日本大学駅伝では1区16位と悔しい結果に

その後、チームでミーティングをして「箱根に向かって頑張ろう」と気持ちを切りかえました。ミーティングでは覚悟を決めて「10000mの記録会でチームトップをとります」と宣言。

初めての箱根駅伝では4区4位と好走。全日本の悔しさを晴らしました

日曜日の朝練習でも2時間ジョグを走ると決め、毎週実施した結果、10000mでも28分55秒をマーク。地道な積み重ねが実を結び、箱根駅伝では4区区間4位と出雲、全日本の悔しさを払拭しました。

関東インカレ4連覇達成

3000mSCでは2年の時に日本インカレでも優勝。「2日前に10000mも走っていた中で、しっかり競り合って勝つことができました」

関東インカレ4連覇のうち、3年生の時が一番プレッシャーだったそうです。「ここで優勝を逃すと4連覇もないので、プレッシャーでしたね。日本選手権のエントリー期日が3000mSCの予選の日までだったので、標準記録突破を目指した選手たちが予選から好記録を出していて緊張感もありました」という中、ラスト勝負を制して3連覇。

4年目は「絶対王者として心にも余裕がありました」。見事に3000mSC4連覇を達成。さらに翌日の5000mでも6位入賞を果たしました。「高校の先生に電話で報告した時に『翌日の5000mの結果で4連覇の価値が変わるぞ』と言われて、浮かれちゃいけないと思いました」。留学生や大迫傑選手もいる中、入賞できたのは自信になったそうです。

また、大学3年生からは主将に。城西大学史上初の2年連続で主将を務めました。「部員約60名をまとめるのが大変でした。学生時代は細かいことを気にしすぎてしまいましたが、主将を経験したことは実業団に入ってから生きています。周りを見ることができるようになりましたし、結果が出ていない選手に声をかけたり一歩引いて見たりできるようになりましたね」

愛三工業で再び世界の舞台へ!

大学卒業後は実業団・愛三工業へ。「実家からも近いので、中学、高校とお世話になった方の目の前で頑張る姿を見せられるのは嬉しいですね」と地元の方の応援も力に変えていきました。

入社3年目の2017年には世界クロカン、アジア選手権3000mSCで念願のシニア日本代表に選ばれました。

「日本代表は大学1年生の世界ジュニア以来でした。ユニバーシアードもチャンスはあったのに標準記録に届きませんでした。入社してからもアジア大会に出たかったのですが届かず、やっと代表になれました。長かったですね。色々考えて、やっと自分のやり方がわかってきました。毎年試行錯誤してようやく形になってきました」

2018年のアジア大会では9位に。先頭から3番目が山口選手

その後は2018年にアジア大会3000mSC日本代表で9位、アジアクロカンで日本代表。さらに大陸別選手権であるIAAFコンチネンタルカップにはアジア代表として出場。さらに2019年には再び世界クロカンの日本代表となりました。

「海外のクロカンはコースもきついですし、会場によっては標高も高いです。社会人になってから海外10カ国に行きましたが、日本の大会はタイムスケジュール通りで優しいと思えるようになりました(笑)」

世界クロカンでは海外勢のスピードに加えて、タフなコースも経験しました

豊富な海外経験も生きて、昨年12月の日本選手権ではついに3000mSCで初優勝を飾ります。8分24秒19と自己ベストを更新しての優勝。東京五輪の参加標準記録8分22秒00にもあと2秒19まで迫りました。

「大学2年生で日本選手権に初出場して、そこからずっと挑戦して8年、やっとここに来られたっていう気持ちでした。今まで2位や3位もあって、やっと優勝できたというホッとした気持ちでしたね」。さらにもう1つのモチベーションがあったそうです。

「こどもが2人いるのですが『日本代表になったよ』といってもそこまで響かないかもしれないけど『日本で一番になったよ』と言ったら喜んでくれるかなと思いました」。家族のために結果を出したいという気持ちが現れた初優勝でした。

それでも山口選手はさらに高みを目指しています。「(五輪内定まで)あと2.2秒届かなかったわけですが、1周に換算すると約0.3秒です。そのタイムを縮めるために現状打破したいですね!」と目の前に近づいてきた五輪出場に向けてさらに挑戦を続けます。

ご自身が打ち込んできた3000mSCについて「観ている方はスリリングでダイナミックですよね! やっている方はしんどいですが(笑)。アフリカ勢は水濠も足をかけずに飛び越えていきます。障害物があるので転倒など最後まで何があるかわからない競技ですね」と魅力を語ります。

アジア代表として出場したIAAFコンチネンタルカップ

また、所属先である愛三工業については「本来、自分で考えて行動し結果に結びつけるのが実業団選手だと思います。愛三工業は選手個人がやりたいことを相談しやすい環境です。自分の意志をしっかり持っている選手にとってはやりやすいと思います」とチームへの感謝も口にしました。

今後の目標についてうかがうと「3000mSCで世界大会で決勝の舞台で最高のパフォーマンスをすることですね。大学1年の世界ジュニアの決勝は完全燃焼できない走りだったので、五輪や世界陸上の決勝の舞台で思いっきり走りたいです!」

日本選手権初優勝を飾り、再び世界の舞台で決勝へ! そして、最高のパフォーマンスをするために山口浩勢選手は日々挑み続けています!

M高史の陸上まるかじり

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