リオ五輪マラソン代表・佐々木悟さん 亜細亜大コーチとして再び挑む箱根路!
今回の「M高史の陸上まるかじり」は佐々木悟さん(35)のお話です。大東文化大学では箱根駅伝に4年連続出場。実業団・旭化成ではリオデジャネイロ五輪男子マラソン日本代表、ニューイヤー駅伝では旭化成にとって18年ぶりとなる優勝に貢献しました。昨年末の福岡国際マラソンで現役を引退。この4月から亜細亜大学陸上競技部コーチとして新たなスタートを切っています。
人生が変わった親友からの誘い
秋田県大仙市出身の佐々木さん。中学ではソフトテニス部でした。「中学に野球部、ソフトテニス部、吹奏楽部しかなかったんです。坊主が嫌でソフトテニス部に入りました(笑)」。そんな中、体力作りの一環で期間限定で特設駅伝部にも入りました。
「ソフトテニス部は合宿がなかったのですが、駅伝には合宿がありました。合宿って当時はただ単にお泊まり会みたいに泊まりに行くだけだと思っていました(笑)」という中学生ならではの楽しみがモチベーションでした。
「駅伝は体力作りの一環でそんなに熱中もしていませんでしたし、その後もやるとは全く思っていなかったです。3年生になってやるつもりがなかったところ、親友が何度も誘ってきて 『暇だしやろうかな』という感じで走り続けましたね」。その後、継続して練習していたら結果に繋がっていきました。
「親友の誘いがなければ今の自分はないです。ただ、自分が入ってしまったことにより、その友達はレギュラーになれなかったんです。今では笑い話になっていますが(笑)」。誘ってくれた親友とはリオ五輪のお土産を買ってくるほど今でも仲が良いそうです。結果的に高校からは陸上の道を選ぶことになりました。
ギャップを感じた高校3年間
駅伝の強豪・秋田工業高校に入学した佐々木さん。慣れない寮生活もスタートしました。「今までの競技人生で一番ギャップを感じました。中学までは楽しく走っていたところ、高校では県で一番は当たり前、全国で戦うんだというギャップがありましたね」。何度もギャップという言葉を口にされました。
高校時代は故障も多かったそうですが、2年生と3年生で全国高校駅伝の3区を走りました。「特に3年生の時は『入賞するんだ』という思いがありました。個人の成績としては、今思えば出し切れたかなと思います」。個人では区間7位、チームは15位でした。
同級生にはインターハイで5000m決勝に進出し、のちに駒澤大学、ヤクルトと競技を続けた鈴木俊佑さんもいました。「なんとか勝ちたいなと思っていましたが、ほとんど勝てませんでしたね」。佐々木さん自身は秋田県高校総体に出場するための予選の段階で故障をしてしまい、インターハイとは無縁でした。
「とにかく高校3年はギャップの大きさが印象に残っています。故障も多かった3年間でしたね」。故障に悩まされた経験が大学、実業団につながっていったそうです。
大東大で箱根山上りに挑む
高校卒業後は大東文化大学へ。「高校時代から寮生活をしていたので寮生活も苦にならず、練習も抵抗なく大学の練習に入ることができました」と高校時代の経験が生きてきました。
1年生から箱根のメンバーに入り、山上りの5区を任されました。「正直、上りはそんなに得意だと思っていないです。他に走れる人がいなかったからだと思います(笑)」と話されましたが、区間6位と1年生ながら好走をみせます。
佐々木さんが2年生になった第82大会から5区の距離が延び、23.4kmの最長区間になりました(4区は18.5kmに距離短縮。第93回大会から現在の距離に再び変更)。佐々木さんは2年生、3年生でも5区を走り、ともに区間6位。1年生から3年連続で5区・区間6位でした。
「学年が上がっても区間順位が一緒だったので『全く成長していない』と言われましたね(笑)」と謙遜されますが、当時5区では「山の神」と呼ばれた今井正人選手(現・トヨタ自動車九州)がまさに神がかった驚異的な走りをしていました。区間距離が延びたことにより、さらに各校のエース級も集まり箱根山中で熱い火花が繰り広げられていました。
大東大のエースとして
佐々木さんは駅伝だけではなく、関東インカレでもエースとしての存在感を見せていました。3年生の関東インカレ2部10000mでは大東文化大学が1位、2位、3位と表彰台を独占。
佐々木さんは2位に入りました。「他の大学も強い中で、表彰台を独占できるとは思っていませんでした。嬉しい気持ちと、ラスト負けたのでちょっと悔しい気持ちもありました」
4年生の関東インカレ2部ハーフマラソンでは優勝を飾ります。レース中、単独トップに立った佐々木さんでしたが「(当時の)只隈(伸也)監督からは『後ろが詰まってきている!』と言われて、チームメイトからは『どんどん離れている!』と言われて『どっちなんだ』と思いましたね(笑)。きっと監督は油断するなという意味を込めて言ってくれてたんだと思います」と初タイトルを獲得。この年は10000mでも5位に入賞しました。
最後の箱根では花の2区に挑みました。「2区の途中、権太坂を上ってる時に思うように体が動かなくて監督から『頼むから動かしてくれ』とお願いされました。本当に申し訳なくて、今でも覚えています」。区間10位の結果に「エースとしてもう少し良い結果を残したかったですし、後輩たちのためにシードを獲りたかったですね」と最後の箱根は納得のいかない走りとなりました。
それでも「高校時代は故障が多くて、その経験を生かして大学ではあまり故障せずに4年間過ごせました。最初は『箱根も1回走れればいいや』と思っていましたが、学年上がるにつれて意識も変わっていきました。競技も大学4年間でやめるつもりでしたが、だんだん欲が出てきましたね」。ですがまさか35歳まで競技を続けるとは思っていなかったそうです。
名門・旭化成に入社
大学卒業後は実業団・旭化成へ。「出身も秋田なので、両親としては関東でやってほしいのかなと思っていました。旭化成からお誘いがあって、両親にも聞いたら『別にいいよ』とあっさり応援されました(笑)」
同期入社は箱根駅伝総合優勝メンバーで関東インカレ2部5000m優勝の豊後友章さん(駒澤大学卒)、日本学生ハーフ優勝者の荒川丈弘さん(東海大学卒)。 「入社してすぐは豊後くんと一緒に練習することが多かったです。正直、練習の質が高くて『これできる?』と2人で話してました。ペース設定を間違えてないかと思うほど驚きましたね(笑)。その後は実業団ともなるとこれくらいの質になるんだと思うようになりました」
ハイレベルな練習をこなしていき、入社1年目からニューイヤー駅伝のメンバーに。上り基調で向かい風が吹くことで知られる準エース区間の5区に抜擢され、いきなり区間賞を獲得。「(走りのタイプ的に)前半区間はないと思っていました。12月の始めにけがをしていたのですが、うまく走れましたね」。全国規模の大会で初区間賞となった佐々木さんですが、この年のニューイヤー駅伝は3チームがアンカー勝負で最後のスプリント勝負までもつれる展開に。3チームが1秒差以内というニューイヤー駅伝史上でも屈指の結末となりました。旭化成は優勝した富士通とは1秒差の3位でした。
「3チームとも同じ車に乗って移動していました。アンカー勝負になり、どこで仕掛けるとか話しながら移動していたのですが、ラスト仕掛けたあたりでちょうど画面が映らなくなりまして(笑)」急いでフィニッシュに移動してから結果を知ることになりました。
「駅伝で3位というと高校、大学からしたらすごいことでしたが、旭化成は優勝を狙うチーム。3位ということで嬉しさと悔しさが入り混じる感情でしたね」とご自身の区間賞の喜びに浸る間もないニューイヤー駅伝デビューとなりました。
マラソン挑戦とリオ五輪
ニューイヤー駅伝も終わり、その年のびわ湖毎日マラソンで初マラソンに挑みました。
「まずはマラソンを経験したかったんです。いざ走り出すと、びっくりするほど汗をかいていました」。初マラソンは2時間14分00秒で7位でした。その後も度々マラソンに挑戦していく中で、2014年のびわ湖でついにサブテンとなる2時間09分47秒をマークし、日本人トップの2位となりました。
「このマラソンが一番嬉しかったですね。全然それまでタイムを出せていなかったので。けが明けでしたが、その中で一番力を出し切れたマラソンでした」
翌年(2015年)の福岡国際マラソンに向けて変えたことがありました。「夏合宿がよくなくて、何かを変えなきゃいけないと思ったんです」。そこで「食事のとり方」と「Jog」を変えたそうです。
それまで早食いだったという佐々木さん。ゆっくり食べることを心がけました。「早食いだと必要量よりも多く食べてしまうので、ゆっくり食べるようにしました。妻にも食事の時に『早いよ』って言われたり、意識的にゆっくり食べるようにしていましたね」
そして、Jogに関しては、いつもよりも10分でいいので必ず伸ばすことにしました。「たとえばJogを一気に30分伸ばすというのは抵抗感があったので、できるところから変えました。他の練習はそこまで変えていないので、(Jogを10分伸ばすという)そこが一番変えたところですね」。ゆっくり食べること、Jogを10分伸ばすこと、この2つをコツコツ継続していくことで徐々に体も絞れていったそうです。
迎えた福岡国際マラソンはリオ五輪の選考レース。佐々木さんは2時間08分56秒で3位(日本人トップ)となり、一躍五輪代表の有力候補となりました。
「正直もう少しタイムは出したかったです。心残りはありますが、レースに集中していましたし、力は出し切りました」。その後の選考レースの結果次第で五輪代表が決まる立場となりましたが「そこまでドキドキというのは正直なかったです。選ばれたらしっかり責務を果たすという気持ちでしたし、もし外れたらまた次の目標に向かっていこうと。待っているという感覚はなかったですね」。あくまで自然体でご自身の競技に集中されていました。
そして、全ての選考レースが終わり、晴れてリオ五輪代表に選出された佐々木さん。レースに向けては「スタッフのサポートもあって変に緊張することもなくいつも通り挑むことができました」。レース中は海外勢の激しいスピードアップも体験。「給水で気づいたらもう離れているんです。『こんなに離れたんだ』と感じた部分でしたね」。五輪本番では16位でした。
「旭化成からは一緒に柔道部も出場して、メダルを獲得していたんです。出るだけでは意味がないなと感じました」。世界の舞台に出るだけではなく、「戦う」ことを同じ会社の柔道部から感じました。
18年ぶりのニューイヤー駅伝優勝
名門・旭化成でニューイヤー駅伝に計9回出場した佐々木さん。中でも一番印象に残っているのは2017年にアンカーで優勝のフィニッシュテープを切った大会でした。
「その前年に周りからも『旭化成は優勝できる』と言われていたのに7位と全然力を発揮できなくて。その次の年に優勝できたのは負けてある意味チームがまとまったのかなと思います」
双子の村山謙太・紘太兄弟(紘太選手は現在、GMOに移籍)、おなじく双子の市田孝・宏兄弟、さらに大六野秀畝選手といった大学陸上界を沸かせた選手たちが入社してきた中でも職人のような走りで、旭化成の激しいメンバー争いの座を勝ち取り、アンカーを任された佐々木さん。
「18年ぶりの優勝ということで、応援してくれた皆さん、会社の皆さん、延岡の皆さんの『ありがとう』の言葉が嬉しかったですね」
さらに「いくら過去に優勝していたと言ってもピンときていなかったです。あそこで勝てたということで意識が変わりましたね」とその後の連覇につながっていったといいます。
昨年の福岡国際マラソンが現役ラストレースとなりました。「本当に恵まれた競技人生でした。高校生の頃はまさか将来九州まで行ってこんなに長く競技をやるとは思わなかったです。苦しいことの方が多かったですが、五輪も行けてニューイヤーでも優勝を経験できてよかったです。高校でけがも多かったのがその後に繋がったのかなと思います」と競技人生を振り返りました。
亜細亜大学コーチに就任!新たなスタート
3月までは社業に専念していた佐々木さんでしたが、この4月から亜細亜大学陸上競技部のコーチに就任。新天地でのスタートを切りました。
就任1カ月ということで「まだ慣れていないので、これから僕も勉強させてもらいます」。宮崎に奥様を残し、単身赴任。選手の皆さんと寮に住み込んでコーチ業がスタートしました。
亜細亜大学の佐藤信之監督は旭化成の先輩でもあり、セビリア世界陸上マラソン銅メダリストでシドニー五輪マラソン代表。リオ五輪マラソン代表の佐々木コーチが加わり、2人の元五輪マラソン代表が箱根路復活をかけて指導にあたります。
「指導者としては選手とコミュニケーションをとりながら、細かく声をかけていきたいなと思っています。まずはそこからですね。僕の経験はあくまでも僕の経験ですし、そこにとらわれてほしくないです。道はひとつじゃないので他にも選択肢を用意して一緒に選択していければいいと思っています」
箱根駅伝では第82回大会で総合優勝を飾っている亜細亜大学ですが、第86回大会を最後に本戦出場から遠ざかっています。箱根駅伝本戦出場返り咲きに向けて、佐々木悟さんの指導者としての陸上人生第2章は新たなスタートを切りました!