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連載:アメフト応援団長・コージコラム

東京に来た通天閣! 好評につき「コージ・トクダ物語」大学編1

ふくらすずめの山本さん(左)、山﨑さん(中)コンビと(コージさん提供)

4years.をご覧の皆様こんにちは。アメフト応援団長のコージ・トクダです。皆様いかがお過ごしでしょうか?

実はですね、3月、4月の僕の高校時代の話が意外と好評でして、ご覧頂いた皆様からDMなどで「高校時代の話面白かったです」や「また続きの話を楽しみにしています」という有難いお言葉を沢山頂きました。本当に有難うございます。あの時、必死に行動した事が少しでも皆様の力になれた事をうれしく思います。

実は一度、アメフトを辞めていた! コージ・トクダが初めて明かすその理由(前編)
実は一度、アメフトを辞めていた! コージ・トクダが初めて明かすその理由(後編)

後輩「ふくらすずめ」と盛り上がる

少し話は変わりまして、事務所の後輩に「ふくらすずめ」というコンビが入ってきました。それだけならなんてことはないのですが、なんと2人ともアメフト経験者なのです! しかも関西学院大学という強豪校出身。事務所内でアメフトの話が出来るなんてこんなうれしい事はありません。これからYouTubeを通して3人で面白いことをしていく予定なので楽しみにしていてください。

さて、今回からのコージコラムでは「禁断の大学時代の話」をお届けさせて頂こうと思っております。

右往左往しながら高校のアメフト時代を乗り越えて、無事法政大学に入学した僕。当時日本一の強豪チームだった法政大学トマホークス(現オレンジ)では、どんなアメフト生活を送ったのか。今の大学生達から見たら全てが異色なのかもしれませんが、そんな所もお楽しみ頂けたらと思います。

今改めて思い返しても、「大学時代あの全てが辛くて苦しくて、でも最高に充実していた」。そう思います。おそらくあそこにいた部員全員がそういう気持ちだったことでしょう。

関西から1人、法大のセレクションへ

高校3年に話を戻す。神奈川県川崎市の武蔵小杉にある法政大学アメリカンフットボール部の練習場所で「セレクション」が行われた。セレクションとはいわゆるオーディションの様なもので、自分の実力をそこで発揮してスポーツ推薦を勝ち取る場なのだ。

全国から集まった猛者達の中でより良い結果を残さなくてはならない。セレクションの当日は緊張でご飯が喉(のど)を通らなかったので栄養ゼリーを流し込んだのを覚えている。

控室でユニホームに着替えながら意気込んでいた。周りもセレクションに選ばれた高校生ばかりだからカラダも大きい。

僕は高校のチームでは大きい方であってもここでは至って普通。東京に来た通天閣のようなもの。たいして大きくはないことに気付かされる。当時の僕は身長182cm、体重75kgとかだったか。

そして、同じ様に着替えている高校生達は何故(なぜ)か仲が良さそうだ。「そうか、関東の人がほとんどだから会った事があるのか」

法大の主将としてチームを甲子園ボウルに導いた(撮影・朝日新聞社)

関西からは僕しかいなかった。逆に闘志がみなぎる。着替えも終わり、防具を持っていざグラウンドへ。日本一のチームの人達の前で精一杯力を見せつけるのだ!

ここで先に言っておこう。ハッキリ言って心が折れた。

先輩達が先に練習をしていたのだが、近くなるにつれてカラダの大きさに圧倒されたのだ。言葉が出なかった。190cm、100kgに近い人達がゴロゴロいた。近づくと上を見上げないと会話が出来ない。まさにスカイツリーだ。わたくし通天閣はたじろいだ。

「こんな人達と一緒にアメフトなんて出来ないでしょ」と。

無情にもセレクションはすぐに始まる。必死に折れた心を修復していく。走ったり、ぶつかったり、ボールをキャッチしたり。様々な動きを見られた。せめて同級生には負けないと頑張った。先輩達の反応も悪くなかった。と思う。

なぜ?セレクションに加わらぬ栗原

余談ではあるが、その時、現チームメートの栗原嵩もその場にいた。彼はほとんどセレクションに参加していなかった。当時は疑問ではあったが今となればわかる。セレクションする必要がない程に実力を認められてたからだ。

法大時代の栗原(撮影・朝日新聞社)

結果は後日電話で伝えられた。「是非、うちのチームに入ってくれ」と。うれしかった。でもそれ以上に不安でもあった。本当にあのメンバーの中で力が発揮出来るのかと。そんなセレクションの思い出だった。

次回は日本一のチームはどんな取り組みをしていたのか。そこにフォーカスを当てて話を進めていこうと思います。お楽しみに。

アメフト応援団長・コージコラム

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