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連載:4years.のつづき

早稲田大で1年春から登板、六大学記録「48勝」が無謀と気づいた瞬間 斎藤佑樹・2

1年目はがむしゃらに細山田(右)のミットめがけて投げ込んだ(撮影・朝日新聞社)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。今回は、早稲田大学野球部で最後は主将を務め、北海道日本ハムファイターズで11年間プレーし、2021年シーズン限りで現役を引退した斎藤佑樹さん(34)です。2回目は早稲田実から早大に進学し、いきなり開幕戦を任された当時の話です。

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開幕戦の観衆は、前年の4倍超え

「いつだったかなぁ。何となく3月のキャンプのときに、当時の應武(篤良)監督から『開幕投手で』みたいなニュアンスはずっと言われていたんですけど。実際に言われたのは、(東京六大学)リーグ戦の直前だと思いますね」。監督室に呼ばれて「開幕戦、行くぞ」と言われた。

4月14日、東京大学との開幕戦。神宮球場には1万8千人の観衆が詰めかけた。前年の4倍を超え、2000年以降の開幕戦では最多。日本テレビの生中継もあった。当時、大学4年生の記者は、知り合いがプレーする姿を観戦するために、この数年前から神宮で東京六大学野球リーグを観戦していたが、この年から球場周辺の雰囲気が一変したことを覚えている。

開幕戦となった東大戦に先発し、勝ち星を挙げた(撮影・朝日新聞社)

それまでは、試合が終わると、直前までプレーしていた選手が正面の入り口付近から出てきたとき、駐車場に止まっているバスに乗り込むまで、よく雑談をしていた。しかしこの年は、選手が乗り降りするバスが正面入り口の目の前につけられ、周囲には柵が設けられるようになった。注目度が一気に高まった選手たちを守るための対策だった。

「プレッシャーは、自分にもかけていた」

東大との開幕戦、斎藤さんは「僕の人生の中でも、5本の指に入るぐらい緊張しました」と振り返る。試合に入る流れも分からなければ、高校野球のトーナメントのように、試合を重ねるごとに段々相手の実力が高まるというわけでもない。初めて経験するリーグ戦は独特の緊張感があった。「先輩方を差し置いて、僕が(開幕投手を)やっていいのかっていうことも考えました。でもチャンスを与えてもらって投げるからには、絶対にいいピッチングをして勝ちたかった。プレッシャーは、自分にもかけていました」

とにかく捕手の細山田武史(元・横浜DeNAベイスターズなど)の言うことを聞いて、キャッチャーミットをめがけて右腕を振った。6イニングを投げ、被安打1、無失点。勝利投手となった。

東大戦で内野安打を放ち、一塁上で笑顔を見せた(撮影・朝日新聞社)

この環境で4年間、大丈夫かな

当時の東京六大学リーグには、大学球界を代表する投手が何人もいた。「早稲田には須田幸太さん(元・横浜DeNAベイスターズ)、松下建太さん(元・埼玉西武ライオンズ)がいて、明治大学には久米勇紀さん(元・福岡ソフトバンクホークスなど)、古川祐樹さん(元・読売ジャイアンツ)がいたり……。すごいなぁと思ってました。高校生よりコントロールはいいし、スピードも速いし、それぞれ特徴もあるし。この環境で4年間やっていくのは、大丈夫かなって思ってましたね」

ただ、マウンドを任された限りは、自分の力を出し切った。1年春は、4勝0敗。ここで漠然とした目標を夢見た。1966~69年に法政大学の山中正竹さんが打ち立てた「48勝」だ。斎藤さんは「今思えば、無謀な目標でもあったなと思うんですけど、偉大な記録はもちろん知ってましたし、『なんかいけるんじゃないかな』ってちょっと生意気ながら思ってました。途中から『いや、絶対無理だぞ』と思いました」

東京六大学記録の「通算48勝」をめざしていたと振り返る斎藤佑樹さん(撮影・浅野有美)

4年間で48勝するためには、1年平均12勝が必要となる。1年間のシーズンは春と秋に分かれているため、それぞれ6勝ずつ。しかし、試合がある週ごとに勝ち点を争う相手は、5校しかいない。つまり、試合がある週に、先発投手として勝ち星を一つ、4年間挙げ続けても、「48勝」に達しない。「土曜日に勝って、日曜日に負けて、また月曜日に勝つみたいなことを続けると、そういう数字になるんでしょうね。恐ろしいです」と斎藤さん。

攻撃力が高かった当時の早稲田

早稲田大に進んで最初のシーズンは、早慶戦に勝ち、2季連続39回目となる優勝を果たした。「もちろん僕だけの力じゃなくて、先輩たちの力がすごく大きかったです」。当時の早稲田大は、攻撃力が高いチームだった。1番の上本博紀(元・阪神タイガース)が出塁し、2番の細山田が送りバント。松本啓二朗(元・横浜DeNAベイスターズ)、田中幸長(元・トヨタ自動車)と続く中軸で上本をかえすのが、得点パターンだった。「初回には絶対に点が入ってるんですよ。それを僕は毎試合感じながら投げていたので、『点取るのは簡単なんだな』って思ってたんですね」と斎藤さんは振り返る。

最初のシーズンは東京六大学だけでなく、大学選手権でも大車輪の活躍を見せた。準決勝の創価大学戦は先発して5回1失点、翌日の決勝・東海大学戦も六回途中1失点にまとめた。前年は早稲田実業で夏の甲子園を制し、翌年は大学選手権で優勝。最高殊勲選手にも選ばれ、アマチュア球界は間違いなく、斎藤さんを中心に回っていた。

1年春の東京六大学リーグで優勝しチームメートから胴上げされた(撮影・朝日新聞社)

秋も最優秀防御率(0.78)でチームの春秋連覇に大きく貢献した。ただ2敗を喫した。めざしていた48勝は「これ、無理だ」と思うようになった。翌2年春は3勝2敗だったが、秋は7勝で2季ぶりの優勝。順風満帆だった大学野球生活は、3年のときに試練を迎える。

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