駿河台大学元主将・阪本大貴さん 箱根駅伝初出場時のアンカー、現在は指導者の道へ!
今週の「M高史の陸上まるかじり」は駿河台大学OB・阪本大貴さんのお話です。阪本さんは駿河台大学が箱根駅伝に初出場したときの主将で、現在はフルヤ金属陸上部でコーチとして指導者の道に進んでいます。
「人間力の根本を作っていただいた」高校時代
阪本さんが走り始めたのは小学6年生の頃。きっかけは小学校のマラソン大会でした。「毎日自主的に走って、校内で2番になったんです。それまで、あまり運動が得意ではなかったのですが、努力すれば輝けるということを知りました」
中学から陸上部に。「全国に出ている同級生がいました。井の中の蛙(かわず)でしたね。1年目から劣等感を感じながらもひたすら頑張ろうと思いました。短い距離は得意ではなかったですが 3000mは走れるようになっていきました」。中学3年生で3000mは8分54秒まで記録を伸ばしました。
「駅伝がすごく好きで、前の選手を抜かす感覚、チームでやる感覚が好きでしたね」
高校は西脇工業へ。「強い選手たちが集まってきて、練習についていけなかったです。ここからはい上がっていかないとという気持ちでした。全てが中学とはガラッと変わりました。自宅から1時間以上かけて毎日通っていました」
高校時代は3000mSCでインターハイに出場しました。
「努力すればここまで来られると自信につながりました。ただ、駅伝では僕らの代だけ都大路(全国高校駅伝)に出場することができなくて、1度も走ることなく高校時代が終わってしまいました」。高校で競技をやめるつもりだった阪本さんでしたが、悔しさから大学でも競技を続けようと決意しました。
「色々なことを学べましたし、人に恵まれた高校時代でした。中学時代の甘えも一掃されましたね(笑)。人間力の根本を作っていただいた高校時代でした」
成長を実感した2カ月間のケニア合宿
高校卒業後は駿河台大学へ進みました。高校時代の5000mのベストは14分33秒。同期の中で一番のタイムで入学しましたが「大学に入ってから2年生の頃までは、自分に甘えてしまっていて、結果が出なかったです。故障もあってうまくかみ合わなかったですね」
転機となったのは2年生の時でした。「当時の3年生主将だった石山大輝さんがチームの雰囲気を変えてくださいました。今思うと、それまでは『本当に箱根を目指す』というチームの雰囲気ではなかったのですが、イチから変えてくださって、これが箱根に行くチームだと思いましたし、自分もこのままではだめだと考え直しました」
そこから生活面も見直し、競技に向き合う姿勢が変わっていき、結果にも少しずつつながっていったそうです。
3年生の冬から春にかけては、約2カ月間のケニア合宿も敢行しました。
「ケニアではシンプルに走ることに向き合い直すことができました。本当に『走る・食べる・寝る』という生活でした。現地の人と触れ合いながら一緒に練習していましたが、最初は高地に慣れなくて『1km4分のジョグがなんでこんなにきついのか』という感じでしたね。森の中を走る練習が基本なのですが、迷ったら帰ってこられないのでサバイバルです(笑)。集団から離れられないので強くなれますね!」
帰国後はケニア合宿の効果を実感されたそうです。「こんなに練習でレベルの高いことができたっけ? と高地マジックというか、ケニアマジックというか、効果を感じました。あれだけつらい思いをしてよかったと思いましたね」
箱根駅伝10区で初めて感じた「ランナーズハイ」
4年生では主将に就任しました。「学年チームトップで入ってきたのですが、その後はダメダメでした。でも、最終学年でチームをまとめていかないとと思い、徳本(一善)監督に直談判したんです。ただ、最初はだめだと言われました(笑)。『このあと数カ月の行動を見る』と言われまして」。行動で示すことができたのか、最終的に主将としてチームを引っ張っていくことになりました。
「一つ上の主将が理想像でした。その先輩を超えないと箱根にはいけない! そういう意識でやっていました」
箱根予選会に向けて手応えも感じていたそうです。「(本戦に)行けるだけの努力はしましたし、チームのみんなが『箱根に行く!』という心構え、気持ちを持っていました。そこまで言えるだけのことをやった自負はありました」
駿河台大学初出場の年は「オールドルーキー」と呼ばれた今井隆生さんの存在も大きかったようです。「今井さんは年上ですが、あまり年が離れた感じはなくて、同級生のように接していました。ただ、社会人を経験しているので見る視点が違いましたね。チームの精神年齢を上げてくれました」
箱根予選会では「レース後『行けたでしょ』と思っていました。でもどうかなと……。自信があるだけ不安というか、ソワソワしていました(笑)。結果発表で呼ばれた時は、もう、魂が出ました。叫び倒しましたね(笑)。心の奥底から声が出ました。やっと報われたという気持ちでした」。
箱根本戦ではアンカーの10区を任されました。持ちタイムでは20番目でしたが、区間7位と健闘しました。
「箱根は一言でいうと最高でした! ランナーズハイという言葉があると思うんですけど、長いこと陸上を続けてきてランナーズハイを経験したことがなかったんです。走るのはただただつらいなと(笑)。でも箱根10区の時は、いま振り返ってもあまり記憶がなくて。記憶があるのはスタートした時の襷(たすき)がつながって『やったぁ!襷がつながった』ということと、フィニッシュ地点で『やりきった!楽しかった!』ということしかないですね。本当に楽しみ尽くした感じです。ゾーンに入っていたと思います。10区の10000m持ちタイムも一番下だったので、普通にいけば区間20位。でも、なぜか区間7位で走れていたので、やっぱりゾーンに入っていたのかなと。4年間で一番良い走りができました」
駿河台大学での4years.を改めて振り返っていただきました。
「本当に人生の中で一番の要となる4年間だったなと思います。徳本監督は見たまんまのパワフルでユニークな監督です(笑)。奇抜なことを考える監督なんですけど人間味があって優しく、一人ひとりを大切にする監督だなと思います」
指導を学ぶため、母校を訪ねることも
大学卒業後は新設されたフルヤ金属陸上部へ。選手として入社しましたが、今はコーチとして指導の道を歩み始めました。
選手生活を続けながら指導にあたっています。「2022年に立ち上がったチームで、ゼロからスタートしました。本当に何もないところからスタートしました(笑)。だからこそ、イチから作っていかないといけないです」
指導者になって一番感じていることとは? と尋ねると「監督、コーチ、今まで指導してくださった方のありがたみを感じています」とお話しされました。「実業団の諸先輩のもとへ足を運んで、アドバイスをもらいながら、基盤を作っています」
現在はチームとして長期的な視点から目標を立てています。
「目標は2032年に予選会を突破をしてニューイヤー駅伝に出場することです。達成して、応援してくださっている方に結果で恩返ししたいです」
第100回箱根駅伝では、母校の駿河台大学が2年ぶり2度目の出場を決めました。「OBとしてうれしいの一言ですね。いまは母校へ指導者の勉強で行かせてもらうこともあるんです。親ではないですけど、見守るような気持ちになりましたね」
母校の後輩の皆さんの活躍にも刺激を受け、新たな目標に向かって阪本さんは現状打破し続けます!