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連載:監督として生きる

仙台大・平山相太監督(上) 高校サッカー界の怪物が大学で伝えたい「準備」の大切さ

今季から仙台大の指揮を執る平山相太監督(撮影・川浪康太郎)

今回の連載「監督として生きる」は、仙台大学サッカー部の平山相太監督(38)です。かつて「怪物」と呼ばれたストライカーは2018年に現役を引退し、その後は大学や大学院に通いながら指導者としてのキャリアを積みました。指導者歴7年目を迎える今年の2月、以前コーチを務めていた仙台大の監督に就任。大学という場所で第二の人生を歩むことになった経緯と決意に迫りました。前後編2回の予定です(以下、敬称略)。

「ほかの指導者と差別化」するため、32歳で大学進学

宮城県柴田町のJR船岡駅から歩いて約20分。仙台大サッカー部が練習する船岡南グラウンドに、「怪物」の現在地はある。人工芝のサッカー場で、選手とともに体を動かしながら的確に指示を送る平山の姿が、そこにはあった。

指導者を志したのは「26、7歳くらいの頃」。JリーグのFC東京でプレーしていた時期だ。「いろんな監督から指導を受ける中で、面白そうだなと思った。選手と指導者では背負っているものが全然違う。それを知りたいという好奇心からでした」。小学2年生から続くサッカー人生の中で、初めて抱いた感情だった。

練習では選手と体を動かしながら的確に指示を送っていた(撮影・川浪康太郎)

32歳で現役を引退すると、2018年、仙台大に入学した。現役の最後に在籍したベガルタ仙台の関係者と、当時仙台大サッカー部で指揮を執っていた吉井秀邦監督(現・総監督兼CEO)が知り合いだったこともあり、縁のある仙台大を受験。見事合格を果たし、大学生としてスポーツ科学などを学ぶ傍ら、サッカー部のコーチとして指導者の道を歩み始めた。

Jクラブのスクールやアカデミーで経験を積んでプロの監督を目指す選択肢もある中、大学進学を選んだのはなぜか。平山は「自分が指導者になる上で、ほかの指導者とどう差別化するかということを考えました。自分は勉強や学ぶことに抵抗がなかったし、むしろそれをしたいと思っていたので、大学に入ることにしました」とその理由を明かす。

プロになれると思わなかった国見高校時代

平山には、以前も大学生になった過去がある。国見高校(長崎)を卒業後、大学サッカー界の強豪・筑波大学に進学した。

高校時代は全国高校サッカー選手権(以下、選手権)で優勝2度、準優勝1度を経験。身長190cmの恵まれた体格を武器にゴールを量産し、大会新記録となる通算17ゴールを挙げた。この数字はいまだに破られていない大記録だ。高校2、3年時に達成した2年連続得点王も、大会初の快挙だった。

3年時は世代別代表でもワールドユースで日本の決勝トーナメント進出を決めるゴールを奪うなど躍動。選手権後には高校生で唯一、アテネ・オリンピックアジア最終予選の日本代表に選出された。国内外のクラブからオファーが殺到し、世間が高校卒業後の去就に注目する中、平山は大学に進学する決断をした。

国見高校時代に打ち立てた通算ゴール記録はいまだ破られていない(撮影・吉本美奈子)

「高卒でプロ入りする選択肢はなかったか」と尋ねると、平山は「その当時、プロサッカー選手になれるとは思っていませんでした」ときっぱり。「最後の選手権だけは活躍しましたけど、それまではそんなに活躍していなかったですから」と笑った。「4年間大学に行って、Jリーグを目指そう」。高校生の平山はそんなプランを思い描いていた。

筑波大を自主退学、稀代のストライカーが明かす「後悔」

しかし、平山の1度目の大学生活は思い通りに進まなかった。大学1年時はリーグ戦に出場する一方、複数の世代別代表でも活動。8月には19歳2カ月の若さでアテネ・オリンピックに出場した。「大学の授業はほとんど受けられなかった。たまに授業に出席しても、何の話をしているのか理解できない。苦労しました」。大舞台で活躍すればするほど、大学は遠い場所になっていった。

そして2年時の夏、自身2度目のワールドユースを終えた直後にオランダ1部・ヘラクレスへの入団が決まった。「ワールドユースで戦った時に、自分の成長を感じられなかった」と話すように、殻を破るために決意した異国の地でのプロデビューだった。同時に筑波大を休学し、翌年には自主退学。覚悟を持って海外でプレーし、1年目は8ゴールを挙げるなど奮闘したものの、翌シーズンは結果を残せず構想外となった。その後はFC東京に入団しJリーガーになったが、そこに至るまでの道のりは高校時代に思い描いていたものとは違っていた。

平山は当時の決断を「もしあの時に戻って同じ状況になっても、同じ決断をしていると思う。(オランダへ)行ったことに後悔はない。ただ、行くための準備をできていなかったことは後悔しています」と振り返る。さらに続けた。「行ったとして、そこでどうしたいかを考えられていなかった。海外でプレーする強い気持ちを持っていれば、語学も勉強していただろうし、高校生の頃から目標を定めていればその目標に向けた計画を立てられていたはず」

現役生活にピリオドを打った地も仙台だった(撮影・長島一浩)

時を経て2度目の大学生活を全うし、2022年からは筑波大大学院に通い、今年ついに大学の監督になった。今、学生に一番伝えたいことは、「人生何があるか分からないということ。そのための準備をして、自分が本当にどうなりたいかを逆算して考えるのが大事だということ」。平山にしか伝えられないこと、平山だからこそ伝えられることを、大学という場所で紡いでいく。

仙台大・平山相太監督(下) 恩師・小嶺忠敏氏から受け継ぐ「指導者=教育者」の信念

監督として生きる

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