ラグビーも勉強も準備が大切 慶應大・古田京(上)
連載「いけ!! 理系アスリート」の第2弾は、日本のラグビーのルーツ校であり、1899年創部の慶應義塾體育會蹴球部(慶應義塾大学ラグビー部)の長い歴史の中で、初の医学部生キャプテンとなったSO古田京(きょう、4年、慶應)を2回にわたって紹介します。
「注目してもらえるのはうれしいですけど、ラグビーで結果を出したいんです」。そう話す古田は、どうして医学部生ながら慶應の体育会のラグビー部に入り、司令塔のポジションであるSOとして活躍するだけでなく、キャプテンとしてチームを引っ張ることになったのか。
花園での負けで、ラグビー魂に火がついた
11月4日、東京・秩父宮ラグビー場。関東大学対抗戦Aグループの伝統の一戦「慶明戦」がキックオフを迎えた。黒黄vs紫紺だ。
2週間前、王者帝京に5点差の惜敗を喫していた慶應は、今シーズン公式戦無敗と好調の明治に勝ち、対抗戦の優勝戦線に残りたい。接戦になった。後半36分、スクラムからのトライで28-24と逆転勝利を収めた。ノーサイド後、歓喜の輪の中心にいたのは、得意の左足で4本すべてのキックを成功させただけでなく、最後まで声を張り上げてチームを引っ張ったキャプテンの古田だった。
現在は医者の卵とルーツ校のキャプテンという「二足のわらじ」を履く古田は、祖父母や両親が医者というわけでもなく、もともと医学の道を目指していたわけではなかった。父がラグビーをやっており、その影響で5歳のとき川崎市の麻生ラグビースクールで楕円球に出会った。「ラグビーの強い中学校に行きたい」と、中学から慶應の付属である慶應普通部に進学し、3年のときは茗渓学園中を破って関東大会優勝という好成績を残した。
そのまま慶應高に進学し、全国高校大会を目指す強豪の司令塔として活躍していた。一方で、大学への内部進学は医学部ありきではなく、医学部か法学部のどちらにするか悩んでいた。慶大の医学部へ進めるのは慶應高の一学年約700人のうち22人という狭き門だったものの、古田は医学部に進学することができる成績があり、医学部に決めた。「評点平均が(10段階中)9弱あって、医学部に進学できるというので周りの人と相談して決めました。すごく悩みましたが、初めは大学でも体育会でラグビーを続けようとは思ってませんでした」
医学部進学の気持ちを固めた直後に、慶應高は4年ぶり、単独としては13年ぶりの花園出場を決めた。神奈川県予選の決勝で、の春の選抜大会準優勝の「東の横綱」桐蔭学園を29-11で退けた。一躍優勝候補にも挙がったが、花園では元日の3回戦、御所(ごせ)実(奈良)戦のロスタイムにWTB竹山晃暉(現帝京大4年)に逆転トライを奪われ、14-19で“サヨナラ負け”を喫してしまった。花園には雪が舞っていた。
「もし、御所実業に勝てれば決勝まで行けたと思いますし、その力があったのに行けなかったのが悔しかったです」と古田が振り返るほど、当時の慶應高は戦力が充実していた。3回戦敗退にも関わらず、古田は高校日本代表に選出されてスコットランド遠征に参加した。花園で敗れた悔しさ、また高校日本代表になったという自信が、「医学部に在籍しながら体育会でラグビーを続けられるだろうか」と自問自答していた18歳の少年の背中を押した。
特例で1年生から入寮
「(大学の)金沢篤ヘッドコーチにも相談した上で、続けようと思った」という古田は大学でも黒黄ジャージーを着て、中学時代からの仲間と楕円球を追うことに決めた。119年という部の長い歴史の中で、過去に医学部に在籍しながらラグビー部に挑戦した選手は何人かいたようだが、両立できず、すぐに頓挫してしまったという。それではなぜ、古田は4年になる現在までラグビーと医学部の勉強の両立ができているのか――。
その理由を尋ねると、古田は「そんなに頭がよくないので」と謙遜しながら、「準備」とキッパリ答えた。
「ラグビーの場合、試合が週末なら、まずは取り組むテーマを決めて、月曜日から相手のビデオを見て分析し、キックの練習もして……とやりますが、それはテスト勉強も同じです。1カ月前、2週間前からと早めに準備をします。すべてそうですが、準備を早くすることが大事です」。また本人が「周りの人のサポートが大きかった」と言うように、金沢ヘッドコーチをはじめとしたコーチ陣やスタッフにも助けられている。
現在、慶應ラグビー部は早朝、3つの班に分かれてウェイトトレーニングに取り組み、さらに授業後の18時から全体練習というスケジュールを組んでいる。本来は寮に入れるのは4年生中心で、1年生で入れるのは神奈川県以外の出身者のみ。だが古田は月曜日から金曜日まで毎日、1時限目から4時限目まで授業があるため、特例として神奈川県出身でも1年の冬から入寮が許可された。
医学部は1年のときだけ練習グランドに近い日吉キャンパスだが、残り5年間は東京・信濃町の慶應病院内にあるキャンパスに通う。「2年生から(日吉から1時間くらいの)信濃町だったので、寮に入らないと両立は無理でした」。ときには実習で全体練習に遅れる日もあったというが、もともと時間を使うのがうまかった古田は、移動中の電車の中でも勉強して、ラグビーとの両立をどうにか実現させていった。