慶應野球部員の体づくり支える「とらひげ」のボリューム満点洋食
慶應義塾大学日吉キャンパスがある東急東横線日吉駅の改札を抜けると、東口に大学、西口に日吉商店街が広がる。西口からまっすぐ延びる日吉本通りを3分ほど歩くと、「とらひげ」と書かれた黄色い看板が目に飛び込んでくる。1962年から半世紀以上、日吉に通う慶大生の胃袋を満たしてきた洋食店だ。とくに東京六大学リーグで戦う野球部とは縁がある。
野球部との関わりはアメリカ帰りの学生がきっかけ
慶大野球部との関わりは7年ほど前に始まった。厨房に立つチーフの福永憲司さんがある日、一人で店に来た学生に日替わりランチ「チキンのチーズ焼き」を出した。彼は遠慮がちに「チーズとたれを多めにしてもらえませんか?」と頼んできた。当時野球部にいた山本瑛大(現・Honda硬式野球部)だった。高校時代をアメリカで過ごした山本にとって、あふれるほどチーズとソースをかけたチキンは「アメリカでの高校生活を思い出す懐かしい味」だったそうだ。通常メニューにはなかったが、山本はその後も来店すると「チーズとたれ多めで」とオーダーするようになった。福永さんが「山本スペシャル」と名づけた「たっぷりチーズのチキン焼き」は、いまでも後輩の野球部員たちに受け継がれる裏メニューになった。
ステーキ平らげ、宣言通りのホームラン
選手たちから「おばちゃん」と親しまれるホール担当の佐藤治子さんは、選手のお気に入りメニューを覚えている。野球部の学生が来店すると、「いつものでいいの?」と聞くだけ。主力メンバーは野球部の寮で生活しているため頻繁に訪れることはないが、オフになると顔を出す。「ボンバー」の愛称で親しまれる左ピッチャーの髙橋佑樹(4年、川越東)の好物は「タレカツ丼」(870円)。チキンカツ2枚に秘伝の旨だれがかかった一品。ボリューム満点だが肉がやわらかくて食べやすく、甘だれが食欲をそそる。
選手たちから最も支持されるのが、「豚スタミナ焼き」(980円)だ。豚肉をニラとタマネギ、しめじと一緒に強火で炒め、店の特製だれで味つけしている。特製ソースで香ばしく味つけされた肉は、ごはんとの相性が抜群だ。
大学に入学したての時期はまだ線の細い選手も多く、「もっと太らなきゃいけないんですよ」と言ってやって来る。「この店でスタミナをつける、なんて言われるとうれしくなっちゃうよね」と福永さん。店長の和田花美さんは店内に大きな炊飯器を置いて、ごはん2杯までなら自由におかわりできるようにした。
慶應義塾高校の頃から通う選手も多い。佐藤さんは「高校時代はヒョロっとしてた子たちが、大学生になって六大学で活躍するのを見ると『頼もしくなったなぁ』と思いますよね」と目を細める。店は年中無休だが、六大学のリーグ戦がある日は、開店準備をしながら試合の中継を見て声援を送る。今年の春季リーグが始まったある週末、某選手が一人でやってきた。「明日の敵(テキ)を食うんです。だからステーキを食べますよ」という注文に、佐藤さんは「じゃあ明日、ホームラン打ってよ!」と声をかけた。その選手はステーキ2枚を平らげ、翌日、宣言通りスタンドへ一発放り込んでみせた。
学生スタッフには「おまえたちがいるから」
試合が組まれると、選手たちから佐藤さんへ「おばちゃん、練習試合見に来てね!」とLINEでメッセージが届く。佐藤さんは試合観戦のため、勤務のシフトを変更して慶大野球部の下田グラウンドへ応援に出かけることもある。福永さんは六大学の1、2年生を対象にした「フレッシュリーグ」の観戦するのが大好きだ。店に来る選手の中には、野球部の合宿所に入っていない控えメンバーも多い。「次の試合、ベンチ入りすることになりました!」と報告に来てくれるのがうれしくて試合に足を運ぶのだという。
一方、「店に来ても元気がないな」と思った選手が「学生スタッフ」になったことをリーグ戦のガイドブックで知ることもある。福永さんは「100人以上も部員がいる中でベンチに入るのは、どれほど大変なことだろうね」と思いやる。だからこそ、主力選手が店に来れば「裏方のスタッフあっての活躍だよな」と水を向け、学生スタッフには「おまえたちがいるからこそ、ベンチのメンバーが安心して野球ができるんだよ」と声をかける。「慶應野球部で経験したことは、どんなことだってその後の人生の支えになる。どの子にも、ここではおいしいものをいっぱい食べさせて、後押ししてやりたいんだよね」。福永さんの料理には、そんな思いが込められている。