勉強に苦戦、支えは「日本代表になれる」の言葉 アルバルク東京・田中大貴2
輝かしい舞台で躍動するプロアスリートの中には、大学での4years.で花開いた人たちがいます。そんな経験を持つ現役プロや、元プロの方々が大学時代を中心に振り返る連載「プロが語る4years.」。第3弾は男子バスケットボール日本代表で、Bリーグ・アルバルク東京の田中大貴(27)。4回の連載の2回目は、進学校の県立長崎西高校で過ごした日々についてです。
朝と放課後に追加授業、練習は1時間半だけ
学校でバスケの基礎を確立させた田中は、長崎西高に進む決心をした。中学のバスケ部の顧問と長崎西の顧問が大学時代にチームメイトだったこと、さらに中学時代の先輩も長崎西のバスケ部にいたこともあり、この道は田中にとって自然な流れだったという。しかし長崎西はバスケの強豪校である一方、東大や京大など難関大学への進学実績を誇る進学校だ。田中は2人の枠しかなかった特別推薦で入学を果たした。
「勉強が本当に一番大変でした。特別推薦だからと言って、一切優遇はなかったですね」と苦笑い。田中がいたスポーツクラスは勉強もできる生徒も多く、授業自体も非常にレベルが高かったという。
「先生って授業中に生徒を指名して答えさせる時、同じ列の生徒を順番に指名することも多いじゃないですか。だからいよいよ自分の番がくるって思ってたら、自分を飛ばして次の人を指名してました(笑)。バスケ部と野球部は飛ばされてたんですけど、正直『助かった! 』って気持ちでしたね。普通なら恥ずかしいことかなと思うんですけど、そんな感情は一切なかったです」
通常の授業に加え、朝と放課後に60分ずつの追加授業があった。学校の規定で午後7時までに下校しなければならず、練習時間は1時間半しかとれなかった。さらに土曜日は毎週のようにテストがあり、それから練習に向かった。テストで赤点をとってしまうと、補習が待っている。そうなると部活には一切参加させてもらえなかった。「いかに赤点を逃れるかということを日々考えてました」と田中。しっかり勉強もしながら、限られた時間の中でバスケに打ち込める環境を自ら考え、実践していった。
賢い仲間とのバスケは「おもしろかった」
そんな進学校にいながら、田中たちは2年生の夏のインターハイと冬のウインターカップの両方で全国ベスト16という好結果を残している。当時のことを振り返り、田中は「おもしろかった」と口にした。
「他の部員はみんな、普通に受験して入学してバスケをしてたから、すごく頭も効率もよくて『賢いなあ~』と感じてました。みんなうまかったですしね。いまトップリーグでプレーしてる人のほとんどが、バスケだけをやってきたと思います。それはそれでいいんですけど、自分は高校時代にそうじゃない環境や考え方でプレーしてきて、バスケだけじゃダメということを学ばせてもらったと思ってます。勉強にバスケにと当時は本当にキツかったですけど、いま思うとそんな選手たちと一緒に時間を過ごせたのはおもしろかったですね」
1時間半だけの練習時間についても「ちょうどよかったです」と田中。「みんな集中してて、ちょうどいい感じでした。ダラダラ練習するのではなく、決められた中でやらなくてはいけなかったので、逆にキツかったですね。時間をムダにできないという部分は、いまも大切にしてるところです。やれる時にしっかりと集中してやるというのはいいことだと感じてます」
最後のインターハイを逃し、やめたいと思った
それでも、大学にスポーツ推薦で進もうとしていた田中と、一般的な受験で進もうとしていたチームメイトとの間には、バスケに対する意識に大きな違いがあった。その差に悩みながらも、田中は最後のインターハイ予選を迎えた。進学校のため、3年生の活動は最長でもインターハイまで。これが最後の全国舞台に立つチャンスだ。絶対に優勝してインターハイに出場し、バスケの強豪大学に自分の力をアピールする。田中はそう思い描いて臨んだが、準々決勝で海星に敗れ、全国の舞台には届かなかった。
「気持ちが滅入ってしまい、いままでで唯一バスケをやめたいと思いました」。田中は当時の苦しい心境を語った。しかし入学の際に長崎西のバスケ部顧問からかけられたひとことが、田中の胸に再び響いた。
「お前だったら日本代表に入れる」
田中にとって、それは衝撃的な言葉だった。中学時代に九州で有名な選手は、福岡第一や福岡大大濠など、福岡の強豪校にこぞって進学する。一方、自分は長崎の公立進学校だ。顧問に声をかけてもらったとき「本当にそうなんだろうか?」と思いながらも、その言葉はずっと田中の胸に残っていた。
田中は悩みながらも、もう一度自分を奮い立たせ、大学でバスケを続けると心に決めた。そのために慣れ親しんだ長崎を出て、日本で最もレベルの高い関東の大学を目指した。