サッカー

連載:サッカー応援団長・岩政大樹コラム

プロサッカー選手・岩政大樹を築いたふたつのけが

岩政さんは“あのケガがなければいまここにいない”というサッカー人生を歩んできた(撮影・山本倫子)

スポーツにけがはつきもの。「スポーツをする」には「けがをする」がセットでついてくる。

誰しもが、スポーツに打ち込む中でけがに遭遇し、乗り越えるという経験をしますよね。どんなスポーツでも、けがと向き合うことは成長のために必須である、と言えるでしょう。

と言っても、いま現在けがと向き合われている方にとっては、冷静に俯瞰した目線は持ち得ないでしょう。「あのけががあったからいまがある」はそこに到達した時に初めて思うことができることですよね。

そこで今回は、私の転機となったふたつのけがの話をしたいと思います。私は本当に“あのけががなければいまここにいない”人生を歩んできたのです。

島で育ち、勝つためのサッカーを悟る 元日本代表・岩政大樹さん1

“サッカーの終わり方”を考えていた私をけがが一蹴

ひとつ目の転機は、大学進学の直前、高校3年の秋でした。

私は山口県の岩国高校という、サッカーでは一度も全国に出たことがない無名校にいました。サッカーには自分なりに本気で取り組んでいましたが、サッカー選手になるつもりなどさらさらなかった(というか、なれそうだと感じたことが一度もなかった)ので、高校を卒業したら地元の大学に進学し、数学の教員になろうと思っていました。

しかし、最後の晴れ舞台とするはずだった国体と選手権予選のまさに直前。私は右足の第5中足骨を骨折しました。凹みました。「挫折」とはこういう心境のことを指すんだと思いました。私が描いていた“サッカーの終わり方”が一瞬にして砕け散って、頭の中の未来像が真っ白になった感覚でした。

けがをして1カ月ほどしたころだったと思います。もう時は11月でした。進路変更にはギリギリのタイミングでしたが、私は「このままではサッカーをやめられない」との結論に至り、当時サッカーの強豪校だった東京学芸大学進学を決意しました。けががあり、失望があり、未来像が真っ白になった頭の中に、自分の心と向き合うことで出てきた答えに素直になろうと決めたんですよね。高3の私は。

そこから人生が変わりました。

岩政さんはケガをきっかけにしてサッカーを見つめ直し、関東の強豪校である東京学芸大に進んだ (C)JUFA/REIKO IIJIMA

東京学芸大に進学した私は、トントン拍子に大学選抜に駆け上がってしまって、人生で初めて「サッカー選手になること」を目標にしました。あの高3のけががなければ、私のサッカー人生はそこで終わっていました。でも、本当は続けたかったんです、きっと。その心に向き合わせてくれたけが、そして、サッカーと私をつなぎ止めてくれたけがになりました。

フルボッコ状態でけが、目標の明確化を意識

もうひとつの転機は、あまりこれまで語ってきませんでしたが、大学2年生の時でした。

1年生の時に大学選抜に選ばれてしまった私は、2年生になって現実を知り、恐れを抱くようになりました。山口の無名高校出の私が大学選抜に入ったからといって、突然うまくなるわけではありません。大学トップレベルの選手との差を、日に日に突きつけられるような時間を過ごしました。

その時にけがが起こったんです。秋の関東リーグが開幕したあたりでした。高3の時とは逆の足の第5中足骨を骨折したのです。

長所より短所が目立つようになってきていたころです。私の評価は「ヘディング強いな! 」から「ヘディング強いだけ」に変わってきていました。加えてのけがです。そのままリーグ戦には最終戦まで復帰がかなわず、「プロサッカー選手」という目標は風前の灯火と化しました。

しかしこれも“いま思えば”ですが、この大学2年生でのけがが、私の目標に対する具体性を明確にしてくれる時間となったのです。

大学1年生の時に、私は初めて「全国」なるもののレベルを知りました。Jリーガーになる選手たちのレベルというものを初めて知ることになり、自分の現在地も分かりました。当然ながら目標まではかなりの距離があると感じましたが、それでも想像ではなく肌感覚で目標値を知ることができたわけです。

2年生の時は、それを元にあがきながら追いつけ追い越せで日々を過ごしていたわけですが、やはりどこか冷静さを欠いていた面は否めません。焦り、劣等感、危機感に支配された私は、“卒業までにどんな選手になっていなければいけないか”の具体性に的確さを欠いていました。「ヘディング強いな! 」はそのままに「ヘディング強いだけ」に終わらない自分らしさをつくり出さなければならない。そのための具体性を明確に打ち出していこうと思いました。

岩政さんは2度目のケガを機に、「プロサッカー選手」になるため、自分らしさに意識を向けた(撮影・山本倫子)

付け加えたかったのは「全体を動かす」ということでした。小さい時からへたくそだった私は、「体を張る」「声を出す」ということをひとつの個性にしていました。しかしそれでは弱い。それらを一歩進めて「全体を動かす」にしなければいけないと思いました。

そのためにはサッカーの戦術を勉強すること、人を動かすためには人を理解することが必要だと感じた私は、サッカーを見る量、読書をする量を格段に増やしていきました。そしてサッカーを、全体の動かし方を、より具体的に緻密に考えるようになりました。それが「ヘディング強いだけ」で終わらせない、自分の生きる道だと定めたのです。

翌年。大学3年生の1年間にすべてをかける決意で吹っ切れた私は充実の1年を過ごすことができました。高校3年生の時のけががあったからこその翌年。大学2年生の時のけががあったからこその翌年。得るものの前にはいつも痛みがありました。

「NO PAIN NO GAIN」(痛みなくして得るものなし)

けがはいつも私にそれを教えてくれました。

サッカー応援団長・岩政大樹コラム

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