サッカー

連載:監督として生きる

改革進め、筑波らしく戦う 筑波大サッカー・小井土正亮監督(下)

久々に筑波大蹴球部に帰ってきて、自分が知っている筑波の雰囲気がなくなっていたことに驚いた(撮影・松永早弥香)

2013年の1年限りでガンバ大阪のアシスタントコーチをやめた小井土正亮さん(41)は翌14年、教員として母校の筑波大へ戻り、蹴球部のヘッドコーチ(HC)に就任。15年から監督となり、いまに至ります。その間、筑波大蹴球部は関東リーグで2部落ちも経験。すぐにはい上がると、リーグ戦やインカレで目覚ましい成績を残します。連載「監督として生きる」第7弾の最終回では、小井土さんが筑波に戻ってから現在までを振り返ります。

Jリーグの現場で長谷川健太と二人三脚 筑波大サッカー・小井土正亮監督(中)

「筑波らしくない」

筑波大に戻ってきた小井土さんは、大学院2年目にコーチをして以来、十数年ぶりに蹴球部を指導。ある違和感を覚えた。小井土さんの中にあった筑波大生のイメージは、何事も自分で考え、答えを導き出して行動する姿だったが、それがまるっきり変わっていた。当時を振り返りながら、小井土さんは言う。

「かつてはああでもないこうでもないって、自分なりに考えてもがきながらやってたのに、指導者が言うことをやればいいんだというスタンスが見られたんです。思考が停止してて、筑波らしくない。だからちょっとずつ、自分が育ててもらったような筑波の雰囲気に戻したいっていうのが第一印象でした」

奇しくも、小井土さんがHCに就いた年の蹴球部は、関東1部で低迷。シーズンの途中、小井土さんは当時監督を務めていた中山雅雄さんに代わって暫定監督を務めたが、成績が振るわず 2部へ降格。小井土さんは心の中で、この屈辱を筑波復活への足がかりにすると誓った。

「パフォーマンス局」設立、全員がチームを支える組織に

14年のシーズンが終わると、小井土さんはチームをどう立て直すかに考えを巡らせた。学生たちには何より自主性を育んでほしかったため、分析やスカウティング業務を任せ、それを通じて学びとったものをチームに役立ててもらおうと、漠然としながらも思っていた。問題はそれをどう具現化するかだった。明確な答えを見つけられずにいたある日、ラグビー部のある取り組みを見て、ひとつのアイデアが浮かんだ。

「ラグビー部には当時からウェイトトレーニングを統括する部局があったんですけど、部の中で仕事を設けて組織としてやるっていうのはいいなと、率直に思ったんです。例えばトップチームの選手ではないけど、蹴球部に来た以上、何か役に立ちたい、スキルも身に付けたいっていう学生も中にはいます。その学生にデータ分析をさせて、トップチームの選手たちにその情報を伝えてあげれば、『俺がトップチームを支えてるんだ』ってなる。そう思って、学生たちに声をかけたんです」

小井土さん発案のもと、蹴球部内に立ち上がったのが「パフォーマンス局」だ。学生の自主運営により成り立っている蹴球部にはもともと「会計局」や「総務局」などがあり、組織として活動していた。部員はいずれかの局にひとつ以上所属しなければならない。だが新設されたパフォーマンス局に参加するのは有志のみ。「やりたい人間だけでやろうと。基準だけは示すからやめたければやめればいいし、っていう風に任意の組織にしました」と小井土さん。すると、参加希望者が次々と現れた。

データ分析以外にも、メンタルトレーニングや栄養学など、あらゆる分野に興味を示す学生がいたため、それぞれの要望を受け止めていくうちに、現在では8つの班(「データ班」、「アナライズ班」、「ビデオ班」、「トレーニング班」、「フィットネス班」、「メンタル班」、「用具班」、「栄養班」)まで膨らんだ。蹴球部には現在約150人の部員がいる。そのうち半分近くがパフォーマンス部に参加しているそうだ。「全部自分が組織立てたわけじゃなくて、学生たちの熱意を生かしてみたらこうなったと。大したもんなんですよ、学生たちは」。小井土さんはそう言ってうなずいた。

最初こそ監督主導で改革を進めたが、あとは学生たちが動いて変えていった(撮影・松永早弥香)

パフォーマンス局を立ち上げて約4年が経ったいま、小井土さんはその存在意義を実感している。各部員のモチベーションを引き出し、チームの一体感醸成にひと役買ったのはもちろん、学生の進路にもいい影響をもたらした。小井土さんはひとつのエピソードを持ち出して言った。

「局を立ち上げて間もないころ、スポーツのデータ分析ができる仕事に就きたいと言ってきた学生がいたんです。その時は当てがなかったので、パフォーマンス局でデータ分析業務をやらせてみたら、実際に彼は望み通りの仕事ができる会社に就職したんです。パフォーマンス局がなければ、どこか違う会社に就職していたかもしれないですけど、人のつながりができて、スキルもついて、自分でも思ってもいなかったところに就職できたっていう一つの成功例が生まれたという意味では、学生の将来にも役立つんだなっていうのは感じますね」

2部で生きたガンバ時代の経験

部の改革を推し進めた小井土さんは、本来のサッカーでもしっかり結果を残した。関東2部で戦った15年は2位で、シーズンを終えて1部へ復帰。ただし必ずしもすべてが思い通りに進んだわけではなかった。筑波の蹴球部といえば、大学サッカー界きっての名門チーム。対戦相手からは常に「あの筑波大が2部にいるぞ」という挑戦的な目で見られ、どの相手も金星を狙いにきた。

下手にリスクは冒せない独特なステージではあったが、小井土さんは冷静なままでいられた。かつてガンバ大阪でアシスタントコーチを務めていた際にも、似たような経験をしていたからだ。13年当時のガンバ大阪も、やはり前年に1部リーグから降格し、2部で戦った。プロとアマチュアという違いこそあったが、チームが置かれた立場や境遇はその時と変わらなかった。

「相手は『食ってやれ』っていうスタンスでくるので、例えば前の試合での戦い方をそのまま筑波の試合でやってたのかというとそうじゃない。『筑波にはどんな戦い方でもいいから、ひと泡吹かせてやろう』と。そういうのはガンバのときにもひしひしと感じられましたし、その経験が私にはあったからこそ、あわてずに90分トータルで勝つようにと戦えましたね」

16年に関東1部へ復帰した筑波大は、その年のインカレを制覇。翌年には大学リーグで13年ぶりに優勝を飾り、天皇杯ではJクラブに3連勝してベスト16進出という快進撃。「応援の雰囲気を見てても、戻ってきた当初より違う。ひとつの組織としていい雰囲気になってきたなっていうのはあります」と小井土さん。“かつての筑波を取り戻したい”という思いは結実した。

学生たちを“小井土色”に染めるつもりはない

今後も蹴球部を指導していく上で小井土さんは、学生一人ひとりのよさを引き出しながら、成長させていくというポリシーを曲げるつもりはない。その中で学生には何かをつかんでほしいと、小井土さんは切に願う。

学生たちが考えて、動く。だからこそ、チームを “小井土色”に染めるつもりはない(写真は本人提供)

「極端に言えば、卒業生の頭の中に『小井土』っていう名前が残らなくてもいいんです。学生たちを“小井土色”に染めるつもりはないし、それ以上に筑波の4年間で一生懸命やったという事実の方が大事。ムダな時間を過ごしたなっていうことだけはないように、4年間でいろいろと鍛えられたなって思える刺激たっぷりの時間を過ごして、たくましくなって出ていってくれればそれでいいんです」

学生の指導に終わりはこない。一生ものの仕事とともに、小井土さんは歩み続ける。

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