サッカー

連載:監督として生きる

Jの現場で長谷川健太先輩とタッグ 筑波大サッカー・小井土正亮監督(中)

小井土さんはプロの現場でテクニカルスタッフとアシスタントコーチを経験している(写真は本人提供)

連載「監督として生きる」第7弾は筑波大蹴球部監督の小井土正亮さん(41)です。2002年限りで蹴球部のヘッドコーチ(HC)から離れた小井土さんは翌年、身を入れて研究活動に励むべく大学院を1年留年しました。一方では、のちのキャリアを形成する上で大事な人との出会いも果たします。3回の連載の2回目は、プロの指導現場に身を置いた経験や筑波大の教員になった経緯を振り返ります。

母校で出会った「一生ものの仕事」 筑波大サッカー・小井土正亮監督(上)

日本サッカー協会のサポート業務で広がった縁

03年当時の小井土さんは大学院で研究に励む傍ら、日本サッカー協会のサポート業務に当たっていた。本人は「バイト感覚」だったそうだが、この時期に接した人との縁が、ゆくゆく大きな意味を持つことになった。

大学院修了後、小井土さんは地元岐阜で教員になる道を模索し、採用試験を受けたが不合格だった。途方に暮れていたとき、小井土さんに声をかけてきたのは、サッカーのU-16日本代表コーチを務めていた池谷友良さん(現・FC今治グローバル事業部スタッフ)だった。

「協会のお手伝いをしていたときにお世話になった池谷さんが、04年に柏レイソルの監督になることが決まり『一緒にやってくれよ』って声をかけてくれたんです。本当にたまたまのご縁でした」と小井土さん。与えられた仕事はテクニカルスタッフだった。試合の映像編集や対戦相手のスカウティング業務がメインの裏方だが、小井土監督はふたつ返事で承諾した。試合が録画されたVHSのビデオテープを、監督のオーダーに応じて編集する作業はもちろん未経験。それでも知見のある周囲の人物を頼りながら、なんとかやりきった。

先輩の健太さんから「やるぞ!」で清水エスパルスへ

柏レイソルのテクニカルスタッフとして働き、ちょうど1年が経とうとしていたころ、小井土さんのところに突然、ひとつのオファーが届いた。「(清水)エスパルスの監督になったから、やるぞ!」。連絡を入れてきたのは長谷川健太さん(現・FC東京監督)。小井土さんにとっては筑波大蹴球部の先輩であり、やはり協会でサポート業務に当たっていた際に接点があった人だ。

長谷川さんと出会ったのは03年だった。日本サッカー協会が開いたS級ライセンス講習会に補助スタッフとして参加した際、受講生に長谷川さんがいた。「お前も筑波か、いろいろ手伝ってくれよと言われまして。プレゼン資料の作成を手伝ったり、映像を編集したり、できる限りサポートしました。それで信頼してもらえたようで、『プロの監督になったときも手伝ってくれよな』って言われてて。当時、健太さんは浜松大の監督をされていたので、Jリーグのクラブで監督をやるにしてもだいぶ先の話だろうなと思っていたら、意外と早くに話が来て驚きました。先輩からの誘いでもありましたし『はい!』と返事をしたんです」

小井土さんはテクニカルスタッフとしての経験も生かして長谷川さんをサポートした(撮影・松永早弥香)

小井土さんは05年から清水エスパルスのアシスタントコーチに就任した。分析業務がメインだったが、コーチとして現場にも立った。当時はまだ新米監督だった長谷川さんとともに、1年目のプレシーズンはホテルに住み込み、互いの部屋を行き来しながら夜中までチームの方向性を練ったこともあったそうだ。緻密な準備を怠らない長谷川さんを、小井土さんは徹底してサポートした。トレーニングメニューを図解化したり、映像としてまとめたりするタスクをまっとうした。

清水エスパルスには5年間在籍した。チームにタイトルはもたらせなかったが、柏レイソルでテクニカルスタッフを務めたときとはまたひと味違った、中身の濃い時間を過ごした。長谷川さんとの息の合った仕事ぶりについて尋ねてみると、小井土さんは「自分もいい意味で人に合わせられるタイプだと思うので、意見を出すところと引くところのさじ加減が、健太さんとマッチしたんじゃないですかね」と、言って笑った。

プロは性に合わず、大学教員を見すえて博士課程へ

10年限りで長谷川さんが清水エスパルスの監督を退任したのを機に、小井土さんもクラブを離れた。次の就職先を考えたとき「来年どうするか定まらないようなプロの環境で、一生食べていくのは自分の性に合わない」と思った。そこで出した答えが、大学教員になることだった。小井土さんは言う。「いろいろ考えた結果、人を育てる環境に身を置きたいと思い、だったら筑波の教員だなと。体育系か教育系の大学の教員になって、かつ、サッカー部の指導と指導者の養成に携われたらいいな、と思ったんです」

これまでの小井土さんは、流れに身を任せながらその時々のキャリアを積んできたが、今回は違った。筑波大で博士号を取得して教員になる目標を立て、そのための準備に没頭した。ジュニア世代のサッカーチームでコーチをしたり、プレーヤー目線の感覚を取り戻そうと社会人リーグのつくばFCでプレーしたりと、指導に必要な知識をもう1度ブラッシュアップする時間に充てた。

ガンバ大阪を1年でJ1復帰させろ

大学教員になると決めて2年が経過した12年のある日、長谷川さんから連絡が来た。「ガンバ大阪から話があるんだけど、来られるか? 」。小井土さんは教員を目指す傍ら、再びプロの現場で指導者を務めようと決心した。「エスパルスでの仕事が終わったとき、フリーの間にまた健太さんから呼ばれたら奉公しようと決めてたんです。本当にお世話になった方なので、お仕えしなきゃなっていうのが漠然とあったんです。だから、迷わず決めました」

小井土さんはさまざまな書物を読みあさった(撮影・松永早弥香)

当時のガンバ大阪は、現在も在籍する遠藤保仁をはじめ、実力者を擁しながら、12年に2部へ降格。そんな中で、翌シーズンの監督を任されたのが長谷川さんであり、長谷川さんの要望でアシスタントコーチに呼ばれたのが小井土さんだった。チームに課されたミッションは1年でのJ1復帰。当然、大きなプレッシャーがあったが、小井土さんは「余裕があった」と当時を振り返る。

「健太さんとよく話していたのは、ガンバの選手たちにはクオリティーの高さがあるということです。シーズンの最初こそなかなか勝てませんでしたけど、その後は自然と『きっちりやってれば大丈夫だね』という感じになってましたね。自分も健太さんも、エスパルス時代の経験があったし、ちゃんとはまり出したら力は圧倒的だった。エスパルス時代とは違った選手との関わり方もできましたし、楽しくっていう表現はよくないかもしれないですけど、充実してやれましたね」

長谷川さんが率いたガンバ大阪は13年のJ2で優勝。1年でのJ1復帰を果たした。さらに翌年は史上2クラブ目となる三冠(リーグ戦、リーグカップ、天皇杯)を獲得。ただ小井土さんはというと、13年限りでチームを離れていた。筑波大の教員採用試験に受かったからだ。

「よかったな、お前のやりたいことだったもんな」。長谷川さんに快く送り出された小井土さんは、新たなキャリアへと歩みだした。

監督として生きる

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